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カテゴリ:政治経済
無料奉仕が美徳であるかのような意見が社会の常識となっているようだが、これに異議を唱えたい。
自分の生計を抜きにして無料奉仕に参加できるのは限られた特権者であり、そんな人々が無料奉仕をして、いわば社会に寄付するのは、これは義務であって美徳ではない。借りを返す、当然の義務なのである。 十字軍に参加した人々は手弁当で、貧民の参加もあったが、無償の自己犠牲心から志願したのではない。 彼らを動かしていたのは宗教的義務感であり、自らの信仰心からだった。 無償だとも思っていない。 エルサレム奪還のあかつきには、戦利品を山のように携えて、いわば略奪をほしいままにして故郷に錦を飾るつもりだった。 志願を募る、その裏に、実は個人の宗教心や公徳心につけこむ、社会の歪があるのである。個人の宗教心や公徳心と、社会の歪が、対となっている。 十字軍を呼びかけた過去のヨーロッパの宗教事情などが、まさにそうである。 参加者には王侯貴族もいたし、ほぼ全員が酷い目に会って、途中で奴隷に売られてしまった子供たちも居た。 つまり、無料奉仕の発案そのものが大概は、美徳とは縁の遠い何かのわるだくみ、なのである。ウッカリ乗ったら酷い目にあう。 そうさせないためにも、無料奉仕をしたいというボランティア側の声があったら、これの受け皿だけでなく、有償の手だても必ず必要なのである。 ボランティア側に、借りを返すという意識があれば問題は少ないだろうが、免罪符としての社会奉仕を漠然と考えているような場合、これが悪意の温床となる。 戦時中の徴兵や玉砕強要のことを言っているのである。志願の名目で、弱い立場の人々を火刑場に犠牲として駆り立てていった、未だ反省されざる過去の事を蒸し返しているのである。 ボランティアというかっこいい呼び方で、同じ轍を、踏みつつある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年08月13日 18時32分10秒
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