|
カテゴリ:哲学研究室
その大自然が捌けないのであれば、対比のしようがないではないか。
こころでは捌けない。しかし常識という共有の理念が立っている。それらは捌けないが、既製のクラスで、掴めるのである。 此処ー露では捌けていないのに、それらをある種のクラスとして把握し、想定して、常識という共有の理念に掴ませているのである。個々人は無責任のまま、である。 無責任ではあるが、これらと個々人との接点は価値観、として存在している。 此処ー露は、見えていないが、価値観が把握できているのである。 神々を祀る、そのことの此処ー露は見えていないが、伝統的価値観が常識として、出ー来た。伝統や常識が、今や価値観とともにある。 今日の私どもは、伝統や常識が、此処ー露の代わりに、神々や大自然のモロモロを捌いてくれるものだと信じて疑わない。 私たちが考える大自然、というモノは、此処ー露が直面しているモノではなくて、伝統や常識といった、いわば立てー前が捌いてくれるものだと、分類ー把握可能な「範疇がある」のだと、信じきっている。 範疇があり、共有する知識の軸といったものがあり、真理はいつでも真理で、技術や学問の正しさは、いつでも正しさなのだと。 欧米人から見れば、信じられないほど純朴で幼い、認識の誤認があるのである。 本当に、真理はいつでも真理であるような、そんなものがあるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年09月05日 05時54分39秒
コメント(0) | コメントを書く
[哲学研究室] カテゴリの最新記事
|
|