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カテゴリ:哲学研究室
コトを事柄(ザッヘ)と理解してはならないと思う。
コトはその内部に場所(オルト)を持つ。 居る、居場所と、戸(玄関)を持つのである。 対象を想定する必要もなければ、アルゴリズムとして把握し、再現構築する必要も無い言葉なのである。 日本人が、その日本語を理解していない。 ハイデガーが、日本語の言葉は事(ザッヘ)の葉(ブラッター)か、と聞いてきた時に、いいえ、利用している漢字の方ではそう書かれますが、日本語ではオルトのオルトです、と答えるべきだったと思う。 正しくは事、場、なのである。どちらもオルトであり、その「同義反復が目的」の「言葉」、なのである。 但し日本語では、普通は同じ言葉を繰り返すのを嫌う。同義反復を嫌う。 同時に、類義統一も必要だからである。だから場所を指し示すコトとバを並べて繰り返す。バイリンガルであった、だけの理由ではないと思う。 このコトから捌かれたモノは、ミメーシスによりそれを共有して理念化、再現が可能である。それが有用、ということである。 しかし隠れ無き露な、モノというのは、閉鎖されたモナドや78%しか把握されない存在者の存在、あるいはサイバネチクス論者の求める、将来の神という、うそら寒い理念なのである。 常に誤った欺瞞の想定が、時空の無い、その将来の神を支えている。 そして無に直面しての、その想定を、その神は、支えてはくれないのである。 実際に想定を支えてくれているように見えるのは日常の経験、である。 時間、空間、という制約があるはずの日常の経験の方である。 ところが、この時間空間を無視して、つまり自然というコトではなく自然というモノだと、理念常識が言わせる。 その「常識という名の理念」が、誤った想定の彼方にある将来の神を支えているのである。 哲学を世に出したソクラテスが最も警告していたのが、この「常識という名の理念」に囚われることの恐ろしさだった。 コトが事柄というモノに変じ、その背後に天井のイデアとは違う、人智の空虚なイデーが居座ること。 ソクラテスがディアレクチーク(対話)を駆使し、哲学が出来た理由は、これを防ぐことであったはずである。 人が自分の論拠を弁証する(言い訳する)、その無知を露にして正していくこと、がソクラテスの弁論術、ディアレクチーク(弁証法)だった。 イデーが忍び込んで、コトが単なる事柄となり、対象のモノと化したソコに、知識が生まれ、同時にコトの場が見失われてしまうのである。だからフィロソフォス(哲学者)とソフィスト(知恵者)の区別は常に明確に示され続けた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年11月17日 07時39分58秒
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