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カテゴリ:哲学研究室
もともと有用とか無用といったものは、価値観を伴う情実判断である。
人の日常(時間空間)とか、政治経済的判断、そして・・・であると論じる、その存在認識判断にも当然、これらの情実判断がついて回る。 だから厳密なことを言い出すと、無用な科学技術データなどは妄想で、全てが情実情報なのである。 科学、という共有の領域を学の理念で、(存在がないのに)仕立てているだけである。実際には目的に先導された技術が取り仕切っている。だから、この情報も、技術という仲介者のための情報である。 情実情報をもとにインスタンスの方枠という仲介者を、この技術が主導して立てー組み、目的物をインスタンスしているだけ、なのである。 審美ー伝達でも倫理ー伝達でもない。仲介者を忍び込ませて、目的物へ直行させている。 方枠として利用されるクラスは、人の現実である時間空間、である。 目的を連れて忍び込んだ価値観によって、自由な権能である、人のオルガノンとしてのありかたは疎外され、技術で無から有を生み出すクラス(方枠)を製造する工場にされてしまったのである。テクネー(無から有を取り出すポイエシスの技)が、時間空間手順を含んだ技術として取り出されて、利用された。 だから、このクラスは有限な時間空間で出来ており、つまり人の疎外された現実で出来ていることになる。(欺瞞の)対象化されているので、見えている。 これがカントの述べる図式(シェーマ)の、不幸な姿である。別名構想力、天才の、囚われた欺瞞の姿である。本来のシェーマは闇であり、純粋悟性概念と結びついた姿(カテゴリー)なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年01月02日 08時18分13秒
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