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カテゴリ:哲学研究室
ナニの言い訳か、というと「日常存在と共有理念の乖離」への言い訳である。
簡単に言うと、現有(ウーシア)あるいは現実論議(自然学)における、メの付け所の言い訳(弁証)である。メというのはメー・オン(無)のメでもある。 哲学は、ロゴス(無知の知)への親愛(フィリア)が支えている。 これを方途の決まった真の論理へ至る知識や方法を得ることだと、時間・空間的には、まるで逆に誤解している人が、ほとんどのようだ。 だが、哲学は一般の学術のように、構築された知恵(ソフィア)への論理が支えているのではないのである。ソフィストとフィロソフォスの区別は、峻別されねばならない。 哲学が頼る親愛は、このレクチャーされて出現したロゴへ親しく馴染むこと、その親しみの起源(アルケー)を「思い出すこと」である。だから言い訳(親愛へのレクチャー)は、結構有効である、はずなのである。 ロゴは、自然な様を形容(エイドス)したり、仲介(エネルゲイア)したり、その手におえないダイナミズム(ヂュナミス)を捌(さば)いて認識したりする、メ(神々の力)のエ(家=立て-組み)のことである。 *「エ・メで、太古のシュメール語の、言葉」 「日常存在と共有理念の乖離」への疑念を根源で正そうと、無から直接立ってみているのである。 いわば無知、でもって立っている。これは例外的単独者としてエクジステンツ(脱ー存立)することで、反省もできる。 但しエクジステンツが目的となったら、これは親愛を失ったニヒリスムス、なのである。つまり、実存主義はニヒリスムスである。 常に日常の野の花、空の鳥を忘れてはならない。空想に頼って野の鳥、空の花となったら、ワヤである。 このロゴス(無知の知)への親愛がなければ、「現実」も、また無い。 知に寄りかかれば明日の実現という空虚な理念の看板があるばかりで、その明日も来るかどうかわからない。 そのロゴスの親愛を無視して知識にこだわり、ロゴに囚われたり、ロゴを形容し支えるスに囚われたりが、これまでの日常共有理念であった。儲け話が多すぎたのである。 言語に絶対的な法則や価値があったり、そのスをシステムやメカニズム、あるいは論理やアルゴリズムと理解して、システムメカニズムやアルゴリズム、あるいは最高の論理を探求する、というのが、一般の学問の軸を形成してきた。 哲学は、その学問の軸を逆に剥いて、もとの(模範となる)自然な時間空間の姿に戻して、ロゴスへの親愛を取り戻す、というのが目的の学問である。いわば、諸学とは時間空間的に、逆になっている。 諸学は、時間空間を人の側ではなく対象物の側に置くが、哲学(自然学)は人の側に置く。特に聖アウグスチヌスやカントは、これを明言している。 だから哲学者の数だけ哲学があるように、一見思えてしまう。たった一つのテーマしかないのに。 哲学(自然学)は、日常存在と共有理念の乖離解消が目的ではなくて、日常存在と共有理念の乖離を、乖離しているその様から「言い訳すること」が目的だからである。 絶対矛盾の自己同一、が目的ではなく、「言い訳」が、目的なのである。 レクチャーされるロゴに馴染ませる、のではなくて、すでに馴染みの日常存在と共有理念の乖離を、ロゴが無の上に立っている様を、「レクチャーして言い訳論議に乗せる。」 それがタ・フィシカなのだが、なぜそんなことが必要なのか、メ・タ・タ・フィカで更に言い訳しよう、というわけである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年01月22日 08時09分55秒
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