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カテゴリ:哲学研究室
なぜ、そんなことが必要なのか。
たぶん、アリストテレスがメ・タ・タ・フィシカを書かねばならなかったと同じ問題に、やっと小生も行き着いているのだと思う。 (西洋)哲学が、世間に完璧に誤解されていることと、これの衰退が、西洋化された人々の日常を、より危機的にしていることが、だんだんと、わかってきたのである。 若い頃、小生は西田先生の著作を読んで、まるでとっつけないので、くやしくて哲学を志した。 少なくとも今の倍は頭がよかったので、理解できないそこにあるものを知りたくて仕方が無かった。 しかし大学に入ってからは、一度も西田先生の著作は読んでいないのである。ハイデガー先生に魅了されたからである。 哲学に対して次のような思い込みが出来ていた。 哲学は数学のようなモノである。但し数ではなくて存在の論理を使う。 哲学は目的を持つ科学技術とは異なり、むしろその目的の言い訳が目的のような論議である。 哲学は従って、人生論ではありえない。逆である、人生などを論じるに値するものかどうか、むしろ論点を反省する学であると。 今でも実は、似たような意見である。 但し、ごく最近まで、哲学は形而上学(メタ・フィシカ)と深いところで関係を持っている、と思っていた。 経済学や政治学である以上に、神学や社会学や心理学や宇宙論、そして社会倫理や生命の本質についての学といった、形而上学と深い関係がある、と。 今は思っていない。 形而上学はニヒリスムスであることを確認した。 第一哲学は形而上学では、ありえない。 むしろ第一哲学は経済学だと思っている。正しく言うと、政治経済学であると。 ウーシア(現有)における巨人の戦いに参加するのが、哲学だからである。まず生き延びねばならない。 生命としての足場の確保と、その確認が真っ先に必要なのである。そのために宇宙全体から構想するというのは、どう考えてもおかしい。 目的より何より先に、経験的日常を、自分の生命と身体を確保せねばならない。そしてそれらが立つ現実を、である。これは善悪抜きの至上命題である。 哲学は、まず経済学で現実の足がかりを確認してから、自然学の泥沼に挑むべきだと思う。 アリストテレスの時代、アテナイの人々はイデア論の危険にはまり込み、空想の未来にうつつを抜かしていた。 アカデメイアは、すでにソフィストたちの巣窟と成り果てていたのである。 耄碌したプラトンには、すでに人を見る目がなくなっていた。 フィシス「自然」が見えなくなっていたのである。現代と同じである。自分の外にあると思っている。 フィシスというのはウーシア(現有)におけるアレーテイア(隠れ無き事)つまり人の側の認識の様を言うのに、認識済みの対象物と成り果ててしまっていたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年01月23日 13時49分00秒
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