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2013年02月28日
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カテゴリ:哲学研究室
 だから、デカルトが再発掘した哲学はすぐに消え、その知識や方法の「再現」だけが、またしても一人歩きした。但し「継承」した人も多かった。
 デカルトはまたしても、フィロソフォス(哲学者)とソフィスト(智者)、共通の中興の祖となった。

 自分で悪霊を遠ざけて、乖離の中から明晰判明なものを選び取る努力をしない人にとって、デカルトの成果は、知識が語る形而上学的基礎にしか見えないのだろう。
 ソフィストたちが依る、思惟する主体と、切り取るべき対象の物、という二元論を提供した、という説である。これはソフィストの知識なのである。
 まあ、神の体系、宇宙の真理、形而上学として読めば、確かにそう書いてあるのかもしれない。
 単純に言うと、思惟する(時間的)主体と(空間的)延長。モノとココロの世界だと書いてある。

 しかし思惟する前に存在はなく、モノを置く以前にココロもないのである。ココロが無ければ場所も憂慮も未だ無い。
 全知全能の神は全てを見守り給う。しかし思惟する主体も、その主体が捌く広がりも、同じく、限りある時間空間の中にこそあると言える。
 この「限りある時間空間」、というのが問題、かつ、哲学がここにある証し、なのである。
 
 デカルトは、思惟する主体者エゴとして、未知の自然物を対象に、絶対の宇宙真理を探究しているのではないのである。これを見誤ると、形而上学の虜となり、哲学が見えなくなる。
 デカルトが実体だと主張した思惟主体も延長も、有限な実体であって、無限ではない。 つまり、死すべき身体であって、共有の理念ではないのである。
 確かに宇宙全体が有限だと言っているのだが、思惟主体もそうだ、と明確に述べている。
 つまり時間も空間も、そして認識の対象さえも、ロゴスに直面したら神の側にはなく、人の側のヤワいものだと述べているのである。
 デカルトもタ・フィシカで検討したので参照していただきたい。

*  ジャバスクリプトの重さはもはや危険。このページでは全く不要なはずであり、はずして利用されることをお勧めします。





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最終更新日  2013年02月28日 07時13分10秒
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