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カテゴリ:哲学研究室
哲学の主人はしかし、絶対精神であったり、絶対の魂であったりもしない。
絶対精神とかいうそれは悪霊の声の主の方であり、立てー組まれた理念に据えられた命題の方にすぎない。 アリストテレスが明言した、こだわってはならないモノだ、ということである。 哲学の主人はまた、ムーサたちの司る美や芸術、詩とも無縁である。 むしろその正反対の位置に居る、ロゴス(言霊)なのである。 芸術が世界を導けばどうなるかは、ナチスが証明したのである。 哲学(フィロソフィア)は、ソフィア(知恵)へのフィリア(親愛)ということだが、ソフィアべったりのソフィスト(智者)とは居場所が違う。 フィロソフォスという、現実を不器用に言い訳する産婆術師、無知の智(ロゴス)を尋ねる貧者であって、智恵という権威を利用する実現の裕福な企画者ではない。 むしろ親愛をたずねて、その智恵という名の権威を破壊し、取り去ろうと努力する者である。 アリストテレスの時代には未だ明確ではなかったこの構図は、以後の哲学の歴史の中で明確になってきている。 アリストテレスはフィロソフォスとソフィストを峻別したが、当時すでに大勢居たプラトン主義者もローマ時代のスコラの学者たちも、ほとんどがソフィストだった。 全てが哲学と銘打たれていたが、そのほとんどがソフィストの学術だったということである。そこから合目的技術企画スキエンチア(サイエンス)が生まれてきた。 智恵という名の権威を破壊し、取り去ろうと努力する者は、むしろ少数派である。 しかし点々と、彼らの業績は残っている。そして不思議なことに、そのつど哲学者たちの業績がソフィストの智恵として、智恵の基礎として伝えられてきたのである。 智恵の親愛が導き手にしている無知と智恵の企画利用は、紙一重だからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年08月20日 05時37分52秒
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