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カテゴリ:哲学研究室
彼らは「現実」、その現有(ウーシア)に拘ったのである。一期一会で去らせることをしなかった。
・・・である、という、人の現実におけるありさまには、ミュトス(技芸=反ロゴス)がもたらすミメーシスの多様なモノの知識と、同時に必ず、ロゴスのもたらす同一性の、受け取りなおしによる緩解統一がある。つまり、わかる、コト、そのカタルーシスが絡んでいると、気がついていた。 わからなければ、ある、というコトは無意味であり、危険なのである。 価値が潜む暗い庭は、本来危険、なモノなのである。 まあ、日本人の方も、それが危険だと知っているから、国家や家を立てる際には必ず築庭し、誓約の場として封印して祭った(政治に利用した)のである。 だが、今やその暗い庭が誰にもわからなくなり、催眠術やコックリさんや占い師、ジャーナリズムによる人身ののっとりが横行し、極度に危険なモノと化している。誓約の庭はなんと、家の付属物に成り果てたのである。 新しい一日を開く名のない太陽の女神と、あらぶる天候神の誓約が、その庭の場だった。 神々の誓約に立ち会って、現実を受け取り、日常を立てていたのだが、その日常が、スリかえられてしまっているのである。科学技術によって得られた合目的技術の知識によって、である。 何もかもが機械仕掛けに成り果てている。 ヴァーチャル(現実)な日常ではなく、ヴァーチャル・リアリティ(現実)な、日常になってしまっている。 これは遠い過去のバーチャル・ガーデニング(全7巻)で論議した記憶がある。 ドゥンス・スコトゥス先生が述べるヴァーチャルはもともと、入れ子状態で現実があり、「対象化しえない現実」という意味を持っている。 そこへリアリティ(リアルな現実)が重ねられて企画されることで、XOR関数と同様の仕組みが働く。WindowsのAPI関数で言うとbitbltである。 入れ子状態の現実が見えなくなるのである。つまり、現実を重ねて、すべてを純粋企画へと持ち出してしまう。 わからないままに、機械仕掛けの神が、居座ってしまう、のである。数学の微分、積分の論理のわからなさも、似たようなモンと考えていい。 悲劇の場でのカタルーシスを引き起こす出来事も、このXORだと思うのだが、神はすぐに忘れ去られる。 しかしリアルな現実では、機械仕掛けの神が背後に、いつまでも居座る。 未知の大自然、としてである。 さらに、カタルーシスも得られるのだから、始末が悪い。 日常が詐欺に会ったようなモンだが、その自覚が得られないので危険だ、と述べているのである。これはまさに、今流行の、一流ホテルが絡む食品偽装事件のコトである。 過去は満足してカネを払ったんだから、もういいではないか。なんで、騙されたと返金を要求するのか、未来を見てカネで水に流そうや、というコトである。それで問題ないのか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年11月10日 06時05分29秒
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