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カテゴリ:哲学研究室
カトリシズムに反抗するプロテスタントの指導者の一人として立ち、弾圧されることを経験して、その後自らが弾圧者にもなったカルヴィンは、はっきりいって、わかりにくい思想の持ち主である。
だが、カルヴィン主義者たちが、その思想の本質をよく捉えているような気がする。 カルヴィンは、「人間のなかに、救いへと選ばれる者と遺棄される者がいる」、としたのである。つまり価値と縁を結べる人と、縁のない人と。 すべて予定されていると。 カルヴィンは、職業は神から与えられたものであるとし、得られた富の蓄財を認めた。 つまり資本主義を神の国のなりわいだと認めたのである。 カトリックが言うような、支配階級と奴隷階級がいて、普遍的な権威と支配権があるのではない。十字架で磔になった人の運命もまた、神が調和へと定めたもうた予定なのだと。 時間的な人の憂慮を運命とすり替え、過去を振り返っての歴史記述の弁証法を未来への企画へとすりかえる、この手法は、まるでライプニッツの形而上学である。その萌芽が、ここにあるのである。もちろん100年前のカルヴィンの方が大先生である。 現代の欧米のプロテスタントの人々は、ほとんどが、このカルヴィン主義者だろうと思う。 民主主義と、そして資本主義を,神の国に予定調和させた宗教指導者なのである。 カルヴィンの、この、神の予定思想は、対象化認識可能な形而上学の芽生え、である。 ルターが可能にした神の恩寵の対象的認識を、形而上学として企画、したのである。 つまりライプニッツの形而上学を指導し導いたものだ、といっていいと思う。 断じて哲学ではない。 ライプニッツは哲学を装っていたが、カルヴィンの思想には哲学を装った部分すら、ない。 これは宗教、レリジョン=神との関係の立て組なおし、の出来事なのである。その建て直しが、対象的認識の枠に絞られ、人の社会の肯定であり、価値(基準)だった、わけである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年11月14日 07時27分25秒
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