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カテゴリ:哲学研究室
なぜかというと、民主主義という組織権力への意思は、奴隷を囲い込む、このお茶会サークルの陰謀でできているから、である。価値がまだ、生きている。
資本主義という組織権力への意思も、同様である。何もかもがマシーナリーテクニーク(発動機の企画)と化して、人間疎外の未知の未来へ邁進しているから、である。 基礎に誤った想定を隠して、発展を続けているのである。 これは破滅を招きかねない。 立ち止まり、たたずみ、企画から脱-存立し、欺瞞の過去を振り返って言い訳論議(弁証)する場が必要、なのである。これは同時に、誓約の場をも必要とする、ということである。虚無ばかりを見ても不毛である。 自然環境とか民主主義とか資本主義、ヒューマニズムといった、既成の理念自体を疑い、まず解体すべきである。単に日常を振り返ることから、である。 人の権能である、ミメーシスとカタルーシスに埋没するだけでは、危険なのである。 確かにポイエシスがなければ人は人生を謳歌できない。詩や文学や演劇といった、そこには価値がある。 しかしこの価値とは何かを無知の場から知ること、つまり価値に寄りかかって生きていながら、その価値とは何か、企画推進のどこにもない未来以外は、なんにも知らなかったということを、まず、知るべきなのである。 お茶会サークルを営む前に、である。 人は確かに自然環境の生き物である。自ら生存のために身の回りを立て-組んで、自然環境というモノを(人工的に)形成しつつ生きる生き物の一つである。 政治経済活動も、お茶会サークル活動も、宗教活動さえも、その自然環境企画、なのである。組織へと立てー組まれ、いまや一にグローバル化された世界遺産だ、ということである。 問題は、人が完璧なオルガンではなくて、オルガンになりたいだけのオルガンでしかない、というところにある。人が絶対精神だというヘーゲルの思想は、哲学を殺した形而上学への意思にほかならない。 人の対象的認識は、必ず先験的誤謬を抱えている。カトリックの言うとおり、原罪(現在)が、あるのである。一にグローバル化された世界遺産は、その罪の醜い結晶なのである。 人の姿の大日如来を立てて、自己の原罪を消すことが、即、危機につながっている。 ライプニッツの形而上学は、永遠に自己回帰するしかない予定調和の未来にしかないのである。 しかし人は、虫けらたちと同様、先験的誤謬を抱えていると同時に、神々の力を捌(さば)く権能も備えている。対象的認識の力は、同時に捌く力があることの証でもある。 プラトンは、それを魂の証、という言い方で表現したのである。(カテゴリー) その力に関して、虫けらたちと人間に、価値の差は無い。 この異教徒の小さな意見は、たぶん聖フランチェスコも同意してくれると思う。 カネや価値基準やカテゴリーが捌くのではない。知識や徳でも捌けない。 価値基準や知識をすべて捨てて、一灯の貧者と化すことで、与えられた目的を生きるだけではなくて、その目的を捌くことができる、ということである。 自由への意思と、あからさまを、である、現象を頼るのではなく、そのあからさまな灯のありさまを頼りに、である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年11月18日 08時00分11秒
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