|
カテゴリ:哲学研究室
すべては対象認識の先験的誤謬を無視する、そのことに始まるのである。
一にして全て、にはじまるのではない。 この世は一期一会であることを無視し、一度の出会いを生涯という全体につなげようとすることで、つまり情報にこだわる事で、その工学企画が始まるのである。 そこで大切なのは工学なのだが、それが企画という悪霊に、あらかじめ指示されていることに気がついていない。それはとてつもなく危険な事態だ。 そう、小生は非常識に主張しているのである。 企画は、それ自体が悪霊だと、述べているのである。 プランという名の動詞として活用される、カルヴィン主義者の予定表である。 プランは単独では動かない。 プランの背後には、実はノートという指示書がある。意味を告げ知らせる、インフォアメイションを与える指示書である。 但し西洋人にはノートは指示書としてはまったく見えていなくて、意味だけが、メモされて見えるようだ。ノートに、ノートブックという意味は皆目、ないからである。日本人には誰でも、ありありと見えるのだが。 これは建前というものを、彼らが日本人のようには使えないからである。建前ができず、告げ知らせる情報だけが、見えるのである。 ノートには書き留めるとか、しるし、という意味もある。神のしるし、なのである。 イメージという意味もまた皆目、ない。これに気がつくのは日本人だけだと思う。 しかし、モナドの表象という権能を、モナド側からアイデントして見れば、これがノートの意味なのである。 このノートという意味が結節点として共有されて見えてくる場所を、彼らは書きとめるノートや建前としてではなく、「ノードとして用意されている」、と考える。 その結節点が見えているのだと。結節点が見えているだけで、書きとめるノートという意味は、彼ら西洋人には理解できないのである。言語の形式が同じ中国人も、多分、同様だろう。 意味の告げ知らせには、一にして全て指示されてなければいけないハズ、と考えるので、そうなるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年12月03日 07時42分22秒
コメント(0) | コメントを書く
[哲学研究室] カテゴリの最新記事
|
|