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カテゴリ:哲学研究室
プラトンの論議を思い出してほしい。
(天上の)イデアを(他力で)ミメーシスしたのが現実世界。それをさらに(他力で)ミメーシスすると芸術となる。 いずれも現実、芸術(作品)、という眼前のモノを見据えての論議であり、人の側の、「ミメーシスという権能から見た」イデア論議、なのである。ピュタゴラスのような形而上学的意図は皆無、である。 イデアにこだわってしまうと、ミメーシスという権能が、数学的に先験的な総合判断として立てられる権能であるかのように思ってしまう。 しかしイデアを絶対の真理であるとし、それにこだわっていたのはプラトン主義の智者の徒であって、哲学者のプラトンではない。 プラトンは真理の構造を作り上げたかったわけではなくて、無知な魂を覆ってしまっている誤った知識をはがし、露な無知を知りたかっただけである。 アリストテレスの論議は、ミメーシスこそが人間のもので、芸術はミメーシスの諸様式化である、ということである。つまりミメーシスのクラス化への意図が芸術には、あると見ていた。合目性に注目していたから、そうなった。 アリストテレス自身が、合目的に、完璧な人間や芸術を目指していたわけではない。 ましてや、イデアを天の中心に据えた形而上学としての構造立て企画をしていたのではないのである。 今日の人々は、誤ったイデア論に基づいて、アリストテレスを合目的形而上学の創始者に仕立ててしまった。 だが、アリストテレスは哲学の徒である。ポエチカ(詩学)は、無知の知のために講義された講義ノート・ブックからプラトン主義の徒によって仕立てられ直したのである。 講義ノートは、ノート(見えない指示書)ではない。ノート・ブックという端末である。 ミメーシスを模倣とか再現とか表象とかに訳すことが、いかに無謀なコトであるのか、理解いただけると思う。 その中で、差異を明確にすることは必要だろう。 プラトンは、現実に対する再度のミメーシスで、つまり反復で芸術が生まれたと考え、アリストテレスは、当のミメーシスを、それにしたがってもういちど見据えることで諸芸術ができている、と見たのである。 ここにはヒントがある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年12月29日 08時19分11秒
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