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カテゴリ:哲学研究室
ミメーシスにおける出ー来る居場所を、失われたエ・ディンを、言葉(エ・メー)によって再度見つけ、ゲシヒテ(生起する歴史記述=病を再びヒストリー化する)として言い訳すること。
病を破壊するためには必要なコトである。 それはロゴスと反ロゴスの関係を操るので、形而上学ノートであるかのようにも見える。それも確かである。 時間・空間というものの扱い方ひとつで、その表裏は一変する。 形而上学は、選ばれし時間空間を未来に据えて、予定調和、もしくは予定、させるのである。破綻は起こらない(ように見えている)。 人の現実は、しかし、そうではない。 現実は必ず破綻し、人は必ず死ぬのである。 人の時間・空間というモノは、種族的にミメーシスされる共有の理念であるが、実在する現実のモノでもある。有限な、しかも時間と空間に乖離したモノである。 この現実のモノは、人の死で破綻し、あっさりと消え去るのである。 その現実を無視して、堅固な共有にすがろうとし、ミメーシス目的で、失われたエ・ディンを命題立てても、無意味である。 此処に-露な現実(ヴァーチャル)が無視されているから、である。経験的な物事と先験的な物事の乖離が、乖離として論議されていない、からである。 テクネー(技術あるいは芸術)は、そのヴァーチャル(乖離した現実)を反復して(受け取りなおして)ミメーシスすることで得られる、非常に稀な天才のクラスである。 つまり受け取りなおしの諸形式化である。 但し必ず、一期一会の運命が、つきまとう。 それは芸術作品の特徴でもある。 シルクスクリーンで描かれていても、リトグラフで多数印刷されていても、製造番号を入れて一期一会を強調する。 諸形式化、つまりクラス(方枠)であるので、その方枠でいくらでもインスタンス可能なのであるが、あえて一期一会を表に出す。 グラビア印刷で寸分違わぬエスタンプを作り出すことも可能だが、高価であってもエスタンプというのは、別名、「偽物」、である。 誰々のこさえたクラスである、つまり受け取りなおしの諸形式化である、ということが芸術作品の基本であるので、製造製品のオブジェクトに美が宿る、ということではないのである。 美など、受け取りなおし、以外の、どこにもない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年01月14日 07時48分33秒
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