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カテゴリ:哲学研究室
必要なのは正しい解釈、ではない。
誤ってきた歴史を見出し、解体すること、なのである。 イメージという言葉の語源を辿ること、ではなくて、それが担ってきた誤りの系譜を見出し、破壊すること、なのである。 メーはもともと、私ども膠着語(ウラル・アルタイ語)の種族の基本言葉である。目というシュメール古拙文字で描かれ、(神々の)力、という意味である。 これはまた、「忌み」でもある。主語は隠れており、祟っている。(神々の)メ、なのである。 ダジャレを言っているのではなく、言葉(エ・メ)に隠れたままの過去の歴史の片隅をほじくって、誤り多く語ってみている、だけである。 忌み、でもあるはずの隠れた主語が表に出て、メーを操る。 それがイ(私が対象立てて)・メー(目にする)・ジ(再び)なのである。 他力を追放し、アイデンチチイがメー(神々の力)を支配する。実際には支配できずに再現するだけだが。 このイは、誤って理解されたイデアのイであることは、間違いないだろう。 一番のイ、意思のイ、イドのイ、源泉ではないのに源泉であることを主張するイ、なのである。 日本語では自分をアとして、他者に対して名指して、始めて、物事が始まる。アは、なんと、相手をさすこともある。 欧米ではなぜかアイ、のアは立たずにイの方が先に立った、のである。アルケーは無視されて、アーカ「い」ブが立った。 意思が立ち、その精神力が先に立った、のである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年02月19日 08時08分57秒
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