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カテゴリ:哲学研究室
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論理と理論、シェーマとクラス、美と感性。 庭の権能を巡って、無数のテーマが、此処から出てくる。庭は此処ー露、の場だからである。構想力と想像力、イメージとビジョン、価値と基準。 無数の泥沼を整然とした塑像に焼き上げてみたい誘惑は控えている。 しかしそれらは、誤った形而上学への方途であることも、うっすらと見えている。 これらに足を取られて、泥沼に引きずり込まれ、30年をムダにしたのである。 今は形而上学によって封印されてしまっている、この庭の物事を、ロゴスとロジックの乖離を、ひたすら見据えるべきだろう。 ロゴスとロジックの乖離というのは、本当はロゴスとミュトスの乖離なのだが、その誓約の庭が小生には見えていない。かろうじて、ロゴスとロジックの乖離が見えかかっている、のである。 時間・空間という、人の感性の形式が(神々の力の)誓約の場を見出し、そこに立ち会うことで、私どもは人の権能(能)を受け取りなおすことが出来る。 それが・・・である、という、ある現実の日常であり、その物事の庭である。 人の思惟はすべて合目的思惟である。その、目的を、超越して飛び越す前に、ハハーの前に佇んで思い出していただきたい。そのためにハハーがある。 ロゴスの目的は「演繹」である。源初のアルケーに至ろうとする努力である。 ロジックの目的は「帰納」である。一なる対象に帰納させて、実現に至る目的がある。 両者の関係は、その統一を志向することにある、といっていい。しかし場所を喪失して、この関係が見えておらず、用具的関係だとか、将来の神への予定調和だとかに、化けているのである。 だから、用具的関係だとか、将来の神への予定調和だとかは、つまり形而上学的超越はどうでもいいことなのである。 むしろ、その「統一を志向」する、ここに、両者の関係に、病根が潜んでいるのである。ロゴスとロジックの病んだ関係、である。 この関係は、演繹という目的と、帰納という目的に分かれてしまっているのだが、形而上学ではそれらを「統一したい」と願うあまり、そこに別の目的が、弁証法的構想が更に忍び込んでいるのである。その構想を取り去る目的で哲学が(無知の弁証法が)あるようなもの。 この統一志向は、欲望ではない。モナドが志向する表象へのいざないや予定調和などでもない。 その誓約の庭が、人の権能(能)を受け取りなおすことが、この統一志向の反省である。 カントは純粋悟性概念の図式、というロゴスのカタログ論議をもって、この統一志向をヤブニラミで、見せたのである。イメージやビジョンを見せたのではない。図式は対象化認識すればメー・オンであって、闇なのである。ゲオルク・トラークルが詩う、庭の暗闇、なのである。 佇んで、まず疑うべきである。 ロジックの目的は帰納にあるように見えるが、ではミュトス(技芸)の目的は、そもそも帰納、なのだろうか。 人がミメーシスすること、それが再現、であるなら、そうなる。作り上げるという目的が立てられ、それを実現させるクラスが集められて型にはめられ、空間と時間でできた現実が姿をあらわす。 しかし、ミメーシスは再現なのだろうか。 むしろ過去の、反復、継承、受け取りなおし、ではないのか。出来るコトの感情が流浪する様をポイエシスだと、詩の立てー組みの目的だと、過去の人々や大詩人は、みなしてきたのではないのか。「出てー来る」ことだと。 詩の目的は、感情を盛んに流浪させるコトだと、萩原朔太郎は明確に述べている。 感情を閉じ込めたり、集めたり、閉じ込める構築物を作っているのではないのである。 アリストテレスの詩学も、トポイ(場所)の論議ではあるが、常套句や決まりへの指し示しが目的ではない。詩を書く意図は、つまりミュトスを再利用する意図は、ないのである。 アリストテレスが詩学で演劇を解体していった目的は逆に、ミュトスの権能を確かめる、という目的があった。 それは人の感性で「出ー来ている」からであり、それが人の感性を操るから、ではない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年03月06日 08時09分33秒
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