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カテゴリ:哲学研究室
ナニを導いているかといえば、言葉という「立てー組み」を導いている、のである。
言葉が立てー組まれてはじめて対象的認識は立ち、物事は認識されうる。 但し未だメ・タ・モルフォーゼである。 その物事が解体されて、つまり言葉の立てー組みが解明されて、はじめて理解、できる。 この理解のために言葉という立てー組みを導いている、のであるが、・・・である、その存在者の存在に囚われてしまって、「理解」という当初の目的を忘れてしまう。 その理解をあらかじめ省略し、代用してしまうのが、イメージである。便利屋。 コトバというのは、「事の葉」であると同時に「事の場」なのだが、その場を喪失させて葉の形容(エイドスの外見)に変えてしまったのである。 この形容は、同時にその関係をもたらす力、しかもその乖離、なのであるが、それらの物事は、代用の場とともに置き忘れたのである。 なんでこんなことが言えるかというと、最近の小生の頭が、ことごとく、そうなのである。 老人性の痴呆症になりかけていて、短絡的な物事しか理解できない。昔はもっと先の先まで読めた。 無数の物事を置き忘れてくるので、ひとつのテーマを追って論旨を組み立てるのは、実に容易になってきた。論文を書くには、重層複雑な頭は要らない、短絡的な頭でないとダメ、ということである。 処理速度も遅くなって、知能指数はたぶん、過去の半分もないと思う。 だが、メタモルフォーゼの置き忘れ、というのは数学の方程式を立てるようなものである。短絡的になるが、それだけに理解しやすく自動になる。 ピサロやルノワールの色彩の魔法を解明するのは容易ではないが、マリリンモンローの看板を見て取るのは簡単だ、ということである。 文学を綴るのは大変だが、レポートは簡単。それも単純な目的ほど簡単。哲学が最も簡単。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年03月10日 06時59分08秒
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