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カテゴリ:哲学研究室
この構想の居場所と時、である「方枠を作り出すー基準」が、忍び込んだ価値の指図だろう。
これをライプニッツは神からの授かり物、予定調和だ、としたのである。 カルヴィン主義者たちの考えを受け継ぎ、選ばれし者が神から与えられる恩寵だとした。 そして原罪を忘れて、見捨てられし不幸な者たちを地獄に落としていったのである。 時間・空間という「方枠を作り出す基準」は、乖離を見ずに統一場仮を見ていたら、確かに、そう見えてくる。 しかし、無意味な統一ではなく、「時間・空間という乖離を見るべき」、なのである。ロゴスとミュトスという、権能の乖離を、一期一会をこそ、見るべき、なのである。 私どもの伝統的芸能である能は、この「権能の乖離」で、出ー来た芸能である。 ギリシャ悲劇という演劇も、機械仕掛けの神を使って、この「権能の乖離」を引き起こし、観劇衆のカタルーシスを誘うための芸能である。 ロゴスとミュトスの乖離を、その幽玄な、かつ一期一会のメタモルフォーゼの世界を見せ、楽しむための芸能である。こころのかっとう、を欺く偽装工作ではなくて、「こころの偽装のさま」をこそ、ありありと見せる。 そのために能面や機械を使うのである。 統一を見ていたら、時間・空間という乖離は、こころという「かっとう」に見えてしまう。ジレンマに見える。純粋悟性概念の図式など、まさに4つに分裂したジレンマである。テトラジレンマ。 しかし主題は、方枠を作り出す基準を選び出すジレンマではなくて、時間・空間という乖離、その自由(自らの由来)、なのである。 ジレンマは誤った道だと思う。小生が自分の大先生の著作を読むつもりがない理由の一つでもある。 先験的認識の神のメモが価値を示すのではなく、経験的認識で得た政治経済的意図が、つまり自然環境の構築意図が価値を示す、にすぎない。ジレンマなど、どこにもない。 単純にいうと、身体的欲求が価値を見せる。 価値は先験的な表象の権能ではなくて、経験的な認識が選んだ基準(クリテリア)、なのである。 そしてそこ(価値)には、つまり価値が見せるジレンマには意味はなく、時間・空間という乖離、から開放される、その自由(自らの由来)の方に本当の意味があるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年03月18日 05時44分32秒
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