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カテゴリ:哲学研究室
哲学はわかる、空き地を目指すことなので、世間の職業に例えるならコボチ屋である。
知識を解体するコボチ作業が必ず必要なのである。したがって、構築作業の実務能力は、ほとんど要らない。 だから、政治経済学や社会学の知識も要らない。 但し、最低限の構築作業ができなければ、コボチも難しいとは思うのだが。 暮らしのまかないや、社会での馴染みもなければ、そもそも生きていけない。 開祖のソクラテスは、コボチ屋とは言わずに、産婆術、という言い方をした。 イメージが悪かったからではなくて、崩すものがロクにない時代だったのだろう。 しかし、大変な相手が、すでにいた。 それがダイモニオンという名のイデー(理念=アイデア)である。イデアではない。イデアについてはもっとずっと、あとで出てくる。 ポリス共同体理念の破壊工作者だと、王室の詩人に告発されて捕縛された。 私が自分の賢い頭で王族の青年をたぶらかしたのではなく、悪霊(ダイモニオン、これがイデーのこと)が、汝コレコレのことをしてはならぬと諭すので、その指示に従って人の無知を悟らしめていただけだ。私は賢くはない。と述べた。 しかしそれでも、ドクニンジンで殺されてしまった。 さらに今日では、ノモス(ポリスの基礎共同体理念)にしたがって自ら死を選んだのだと、法学者や倫理学者から、誤った注釈をされる始末。 罪を認めて追放されるという手もあったようだが、哲学への冤罪を認めるわけにはいかなかった。 要は冤罪で権力者に殺されただけなのだが、死後も冒涜は止まらないのである。 コボチ屋は、本当は危険な職業なのである。 冤罪に落とされやすいし、神の手の指示書だとか、歴史的知識だとかに捕まって、奴隷になりやすい、食えない職業でもある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年03月26日 06時51分13秒
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