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カテゴリ:哲学研究室
教科書には、ウソばっかりが書いてあった。
だが、小生は本物の哲学的態度を、ここで学ぶことができたのである。 わからんことには、わからん、ことを確かめて相手する。 この倫理・道徳の先生(実は名前も忘れた。追手前高校ではなく、愛宕中学校だと思うが、逆かもしれない)はまた、専攻はカントを選んだが、これは間違いであったことがわかった、と言っていた。本当に全然、さいごまでわからんかった、と。 この年になって、同感。 カントは50歳を過ぎて学ぶべきであるが、未だに、わからん。というより、もうアホになっていて、読めん。まあ、昔もロクに読めんかったし、その努力もしていないんだが。 小生は外国語には弱い。だから最近アルファベットは使わない。スペルを間違うから。 ともあれ倫理・社会という教科は、哲学を奴隷化して、倫理や社会現象に突っ込もうとした。 だが、ムリだったのは間違いない。 そこに道徳も哲学も全く入っていないのは間違いないが、この教科を作った人々は、何を意図していたのだろう。 当然、社会が要求する倫理、というものを子供たちに倫理感として持たせたったのである。つまり、結果的に「無責任体質を、教えたかった」のである。 神学や心理学、宇宙論から始まる形而上学のモロモロの片鱗と、思想史、文学史、社会学、文化人類学、経済学、などが、そこには突っ込まれていた。 そして倫理学と道徳、ではなくて道徳論と倫理必要論がちょっとだけ書き足され、さらに宗教学や仏教学のごった煮知識の羅列があった。 それらが外縁で、ヘンな意図を物語っていた。 彼らは学問知識の体系の軸のようなものがあることを確信していて、そこへ多感な中学生をブチ込んで、組み込み、鍛えたかった。 倫理・道徳の教えは、社会体制を堅固に立てーむための金化玉条だが、敗戦の中で、誰もが、その金化玉条に疑惑を感じていた。 だから、過去の倫理・道徳の教え以上「の価値観や認識力を育てたかった」、のだろう。 その思想が、すでに病気、なんだが。 過去の思想は病気、なのである。 それは呼び戻して解体し、原因を掴んで治療せねばならない。しかし、誰も本気で過去を呼ばない。病気の自覚がないからである。年寄りになって耄碌した自覚がないのと同じである。60過ぎたじじいなんて、全員耄碌してボケているのに、政治家や社長に多い。 ゲシヒテ(生起の歴史)として遡及してゲシック(命運)を探り当て、そのシックを取り去らねばならない。 思想というものの力に目覚め、それに捕まった人は、自分が、こんな力を持っていたのかと驚く。 しかしそれは、「死に至る病」に捕まって奴隷化された、ということなのである。 倫理・道徳は、実は哲学とは一切無関係に、この、死に至る病を、病と気がつかずに扱う教科である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年09月04日 08時15分12秒
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