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2014年09月25日
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カテゴリ:哲学研究室
 時間は必ず「経過」なのである。過去に落ちた経過。

 この経過に注目して、カントは、図式論という人類最高の時間論に到達したのであるが、純粋理性という非経験の、いわばテンソルなテーマの中で批判できた、ことである。
 だから、経験的な現実の中で批判すべき、という考え方も、当然出て来たわけである。
 しかし、その発想は、カントのものではない。
 カントは形而上学的な現実など、哲学者に転向して以降は、軽蔑している。
 カントは確かに科学技術的な発想法を利用して純粋理性批判を書いたが、「批判」として書いた。形而上学を求めて書いたのではない。

 批判の目的も、人のミメーシスの再現、ではない。
 批判して破壊し、切捨てること、なのである。若干、悪魔的に振舞ったのである。
 時間を哲学するということは、それを破壊し、切り捨てること、を意味する。
 ミメーシス、した過去の経過がある。
 コレは必ず先験的に誤った認識が含まれているのだから、コレを破壊して見出し、切り捨てるということ

 つまり、純粋な時間、など、もともとありえないのである。
 純粋な理性もまた、現実には、ありえない。しかし現実に利用されているのだから。
 だから現実に想定されたモノが出現し、それを批判してぶっ壊す。それで解るのが哲学。

 批判しやすいように純粋理性を、つまり怠落した経験抜きの現実を立てて批判しただけで、別に日常の現実、でいいのである。アリストテレスの立場で。
 カント先生の方法には囚われず、日常の現実をぶっ壊すことを考えてみよう。

 時間は必ず「経過」なのである。過去としての経過。
 現実(バーチャリター)は、この経過の中にあるのであって、瞬間や企画のなかにあるのではない。
 唯物弁証法(モノのみがある、と言い訳する病のこと)や史的唯物論(記述された過去の歴史が言い訳している病)であって、それを逆立ちさせた絶対精神の導きや、将来の学術の全体、といった、病的な倫理観に迷イコンだ言い訳のなかにあるのではない。






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最終更新日  2014年09月25日 06時08分28秒
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