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カテゴリ:哲学研究室
無量、無時間、無居場所の光である阿弥陀如来は、他力である。
これはich(私)の立てたアイデンチテートとしての無時間・無空間のことではないのである。 ich(私)の立てたアイデンチテートとしての無時間・無空間なら、私が立てたのであるから、何処にでも、何時にでも、立ちうる。 それは思惟のファンタシアと、その命題として、立ちうるのである。他力は違う。 エゴが立てたアイデンチテートという「自分を無くさないことには」、親鸞上人の言う他力は、やってはこない。 量であることを自覚しないとやってこないが、独自の量に執着し、印象を持つ限り、やはり、やってこない。心身脱落(これは全然宗派の違う、道元禅師の言葉)しないことには、やってこない。 エク・ジステンツ(脱存)という呪文も、本来は、そういった(心身脱落の)意味である。 ハイデガーは、エク・ジステンツして得られる、この心身脱落を表現するのに、ゲ・ラッセンハイトという言葉を使っている。成り行きに任せて。 さて、ファンタシアは、アリストテレスが、その「合目的論議の哲学」をやっていく中で述べたことである。成り行きとは、まるで逆の時間モーメントを理解するために。 アリストテレスのこれは合目的論議の「哲学」である。合目的企画理論のための論議、ではない。 批判や、無知を、理解すること。合目的論議からエク・ジステンツ(脱存論議)して、アイデンチテートを解体して心身脱落すること。 無時間の立てた心理学ではないし、心的現象を説明する道具に使った概念でもない。 ましてや形而上学企画の命題、ではないのである。 アリストテレスはロクに読んでいないし、ギリシャ語もわからんので、述べていることごとくは、リュケイオンで学んだ智識披露ではないことを、お断りしておく。 フッサールから学んだ、幽霊にも似たファンタスマでもない。幽玄は幽霊ではない。 過去の先生方の講義をモレ聞いた断片知識をもとに、自分で、小さな小さな自分の量的無知を祭って、ロゴスにお伺いを立てているだけ。 ファンタジーは今日、幻想とか御伽噺という意味だが、それを論じるつもりもない。 対象を立てて認識する人の、合目的論議において必ず立てられているナニカ、として、哲学のモノとして(批判の対象として)、論じるつもりである。 現代日本人の場合にはイメージ(それも心象の印象的な)が立つのが普通だろうし、形而上学に囚われの人には、善や美の理念が還元されて立つかもしれない。 しかし、ファンタシアは、善や美や価値のモロモロとは「無縁」なのである。接点が無い。 言うなれば、それらとは「中性的な思惟」なのである。 なぜかというと、無時間的・無空間的に立って、善や美や価値を語ろうと意図するモノが、ほかならぬファンタシアだからである。 ファンタシアが時間空間より先にたつ、のではないのである。ファンタスマといった幽霊を想定は、できない。 それは無時間性・無居場所空間を「偽装して」、空間・時間の中に、幽玄に立つ、「人の合目的化された空間・時間」なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年11月13日 08時10分13秒
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