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カテゴリ:歴史・文化
日本列島から、大和朝廷が新羅を征伐したという記述はウソか。
この問いの立て方に、誰もが騙されてしまうのである。 この問いは、列島が日本であり、新羅の一部が、あららやタララだという、日本書紀に記述された常識の概念で成り立っている。 しかしかぐやひめの幻想物語は、この概念を破壊してしまう。 この問いが、正しく立たないのである。 整理してみよう。 列島にあったのは、確かに倭の諸国の一部である。 しかも、その中に、秦人の国のみならず漢人(大伽耶)の国も加羅(韓)人の国も、多羅(百済)人や阿羅(日本)人の国さえあったのである。高句麗系も、シウシン(北倭)系もあっただろうと思う。 ただ、日本というのは、この列島の、過去の諸勢力を言うのではないのである。 列島へ、突然大軍で殴りこんで、中心地のナラに居座ってしまった、大和の天の王朝とともに、ごく最近出現した、特殊な武人種族のことを言うのである。 新羅の国の核であった桂林が、阿羅軍に占領された時代は、確かにある。 それはずっとずっと大昔、高句麗の広開土王の時代だった。 当時は倭国連合が勢力を拡大していて、倭の12国は辰王を中心に団結し、極東域でのイスラエル帝国の再興を目指していた。 参加した国の数は12よりもっともっと多くて、アラメアの国の末裔、阿羅も、この12部族の同盟者として参加していた。 イスラエル復興の有力メンバーだったのである。 しかし広開土王の高句麗が主導権を奪い、やがてその代官にすぎない桂林が、倭国の構成国を次々と滅ぼし、やがて金官加羅を滅ぼして以後、新羅となっていった。 その倭の諸国や高句麗や、さらには新羅が、そして百済文化を持つ大伽耶や多羅が、列島に次々と殖民国家を築いていたらしい形跡は多い。 しかし列島の諸勢力が、半島を襲った形跡の方は、白村江の戦いまでは皆無、なのである。 しかも白村江の戦いは、後に述べようと思うが、列島の私どもが考えるような、大きな戦ではないし、半島では、さして重要な戦いでもない。 それを大きな戦であったと見せかけたい勢力が居ただけである。 ソレが証拠に、実は唐側にも、新羅側にも、ロクに記録がない。 唐も同時期、女帝の即天武皇が現れてガタガタしていた。これを天皇だと言う人も多い。 百済が、多羅と阿羅の一部を占領した時代も、確かにある。 それは最近の話で、それが原因で、この地域に大動乱が起きたのである。 日本書紀で、なぜ阿羅と多羅が日本軍に占領されたと描かれる事になったのかは、これも、壬申の乱で明らかになるはずである。 倭の人々は、そう書かれていることに納得した。 そして、すでに列島の支配階級に収まっていた日本人もまた、過去を忘れて納得した、のである。 だから、日本列島から、大和朝廷が新羅を征伐した、と記述されたのである。 実際には、多羅と阿羅の人々、つまり半島の日本府の人が、大和朝廷の主人筋となり、倭(南倭)やシウシン系(北倭)の人々、そして秦人とともに、大和人となっていった、だけである。 見方によれば、新羅はその辺境部分を切り取られた、のである。 かぐやひめは、倭を滅ぼしたのではなく、代表した、からである。 *相場、意外に下がらんが、小型のエネルギーが減ってきた。理由不明。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年01月22日 12時36分40秒
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