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カテゴリ:歴史・文化
公孫武王の死は、書紀では飛鳥に板葺きの宮建造後、斉明天皇即位後、となっている。 皇太子を決めての即位、天変地異、公孫武王の死、有馬の皇子事件の順である。
しかし宝姫は、溺愛するユシン様の子を次の王にと決めていたと思われるので、中の大兄の皇子を皇太子に決めての天皇即位が、先に来たはずはない。 しかもこの時期、皇太子は二人、居たのである。 「殷(イシン)最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けられたという天智天皇の、和風諡号名を思い出していただきたい。 あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと。 読み方で、二つの名前を持つのである。 諱(実名)は葛城(かづらきもしくはかつらぎ) この葛という文字は、新羅の王族では特別な意味を持っている。 それは実権の無い養子の王に使われた。単に血筋をつなぐ為のツル、なのである。 敗戦国の金官加羅の王族から、権力のない立宗葛文王が婿養子で新羅に入って、その子が、新羅中興のチヌン大帝となった。 葛城というのも、城の補給路をつなぐツル。 そのツルの先に、中の大兄の皇子が居たのであるが、河内王朝に居たわけではない。 主の居ないソラボルに、居たのである。 そして、宝姫は即位など全く考えてもおらず、掘っ立て小屋の宮殿となる板葺きの宮も、いつまでたっても建たなかった。 そしてユシン様の子、武王が死んだ。 言葉も、しゃべれぬまま。 素直な子だったということで、宝姫のたいそうな、お気に入り、だった。 ソラボルの言葉は喋れたのだろうが、お伴の日本軍の人々が喋る言葉には、結局馴染めないまま、だったのである。 宝姫は嘆き悲しみ、殯宮(もがりのみや)に篭ってしまった。 まつりごとも、戦闘が続いている前線への指示も、宮殿の造営も、突然に止まってしまった。 まだ若い多遂が奔走し、飛鳥の宮殿造営は進んだであろうが、この間、天の王朝は舵を取る者が消えたまま、迷走する。 太陽が、天の岩戸に隠れたような出来事だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年02月11日 12時17分10秒
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