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カテゴリ:哲学研究室
しかし存在と時間という、あの大著を構成していくさなかにおいて、後半の意図は、ことごとく放棄されたのである。
時間論の方から存在論を見直す、つまり形而上学的宇宙論は、人間として関わってはならない領域だということを悟ったのである。ナチには多いが、ハイデガーは超人論議は、しない。 ユダとは決別したし、シェリングのような悪魔主義者にはならなかった、ということ。 ユダというのは徹頭徹尾、現実主義者である。78%の「現実」しか、認めない。 それとは決別した。 一方、ナチというのは徹底したツラン主義者である。過去の欺瞞を正してくれる「オカルト的原郷」を追い求める。だから建前主義の日本人とも同盟できた。 ハイデガーはナチを選び、「現実主義者が常に必要とする形而上学的宇宙論」を遠ざけたのである。 ナチにとって、現実主義者というのは悪魔そのものに見える。 小生はナチではないし芸術家でもないが、意見は同じで現実主義者というのは悪魔だと思う。 そのかわり、ハイデガーの時間論議は、未だ無く、すでにない、時熟を見据えた論議となってしまった。 存在論議の批判的解体はできたのだが、暗い時間の全体が居座ってきて、世界を立てー組んでいる(ゲシュテルの)様は見えても、今度は自分の足場もなくなっていることに気がついた。 世界像の時代はすでに来ており、ニヒリスムスは完成してしまっている。 ハイデガーはナチなので、78%の現実には、すがらず、自分に誠実に、哲学の終わりの方を告げた。 ハイデガーが述べている哲学というのは、もちろんヘーゲル哲学の理念のこと。 人々が共有できる、哲学という学問理念のことである。 それは終わったのである。今は現実主義者の陰謀が、世に、はびこっているだけ。 この「ハイデガーの時間論」に耳を貸さない人は多い、というか、現実主義者にもツラン主義者にもならない、学問の奴隷は世に多い。 小生も実はその一人で、ハイデガー先生から多くは学んだが、現実主義者にもツラン主義者にもならないので、未だに奴隷の身分で落第生のままである。 時間論の方から存在論を見直すことは、まったくできていないというか、その気もない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年02月18日 09時07分36秒
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