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カテゴリ:政治経済
トップというのは責任者である。共有の認識において責任を取るために存在する。
そのトップが部下の責任を取らんというのでは、誰が取るのか野前に、責任というものの拠り所がなくなる。 理研の利権ガラミの事件では、現場の下士官が問責されて追放、中隊長が自決して責任を取った。 はっきりいって、戦前より酷いのである。 日清日露の時代には、もっぱら将軍が責任を取って自決していた。 それが2.26事件で右翼強硬派が一掃されて以降は、もっぱら佐官クラスにその責任をおっかぶせることが流行した。 軍部がシベリア出兵で病んだからである。 そして戦争末期には、その責任転嫁がだんだん下がってきて、やがて予科練習生にまで及んだのは周知の事実である。 これが戦後、天皇がGHQに首を差し出しに赴いた英断で、モトに戻るかと思われた。 だが、結局戦時中に戻ったわけである。 他人の責任を取るつもりのないやつに、トップをやらせるな。責任を任せるな。 もっと極端に言うなら、自分の利益を追求するようなやつをトップに据えたら終わりだぞ、ということ。責任というのは価値認識、存在認識ということだから。 トップというのは責任者である。共有の認識において責任を取るために存在する。 自分の利益を追求するのは、ウダツの上がらない守銭奴の方である。 守銭奴は、末端のオイラたち、ド貧民だけでいい。カネのあるやつにやらせるな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年03月24日 07時41分22秒
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