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カテゴリ:歴史・文化
衰えたウラルトゥ勢力は、グレコ・バクトリアに入ったが、その後さらに分裂し、一部は匈奴へ、一部は秦に入って、かろうじて命脈を保ったことがわかっている。
偽書と言われるが、これが契丹文書に残っていた。 ときの王は大秦(シリア)から秦を独立させ、その秦はアッシュールの敵を追って中原に入り、そこにイシン第三帝国を築こうとしたのである。 本当の中国を、作ろうとした。 だからこの時代、秦王がイシン王(辰王)であるべきなのである。 中国の統一を果たしたのは、辰王たる荘襄王(子楚)の息子の、政、だった。おとっつあんは早死に。 荘襄王の宰相は、呂不韋という名のユダヤ人大商人だった。 ザリアスパ(アフガニスタン)での出来事と、構図が似すぎているのである。 たぶん、話が混ざっているか、匈奴の離反というシルクロードの途絶で、同じ話が東西に分かれてしまったか。 ザリアスパ(グレコ・バクトリア)と秦は、シルクロードという回廊で結ばれた二重国家だと思う。 千の都市を支配していたというザリアスパは、当時の超大国だった。 しかしシルクロード沿いにも、アフガニスタンにも、もちろんそんなに多くの都市は無い。 しかし秦は、文字通り千の都市を支配した。 政は、子楚の本当の子ではなく、この呂不韋というユダヤ人の息子だという説が、今は世間でも一般的である。 当時の誰もが、それを知っていた。 母はたぶん、デオドトスが征服したパルサワ(ペルシャ)の王女。 コレもオイラのトンデモ説だが、荘襄王はデオドトス本人。バシレウス(王)・デオドトイとある銀貨の主。 鹿島説では確か、その父のベッソス説である。 奇貨置くべしの基となるカネを出したのは、シリアの勢力とつながって資金援助を受けてアスカ地域を平定し、兄弟相争う万年王子の地位を脱して、ピンドゥサーラの跡目相続を果たし得たマガダの王子だと、オイラ考えている。 つまりアショカ王だと。 シリアと秦とマガダをつなぐ先進文化の諸制度にも、ユダヤ人が絡んでいると思う。 巡察制度や太守制度、師団制度など。もっとあるだろう。 まだ少年だった、この政と言う有能な少年が国を受け継ぎ、秦はやがて豊富な資金で強大化して、中国の統一を果たすことになる。 そして中国ができて、彼は辰王となるはずだった。 しかし匈奴の支配するシルクロードの草原地帯から、秦への軍用道路(秦時代の長城)を確保し、すすんで軍需物資の搬送を担っていたイスラエルやウラルトゥの民は、やがて彼から次々と離反して、逃げていってしまったのである。 ユダたちの、血の陰謀に気がついたので。 ** リチャード・コシミズ オウム真理教事件と創価・統一・北朝鮮 https://www.youtube.com/watch?v=Yz16Nkx26gY オームの拠点はハザール?この説面白。確かにオームはクルーザーをいっぱい持ってた。世界情勢も最終はカネ。言っていることのほとんど、核心は、あたってると思う。 オーム事件は終わっていない。これにも大賛成。 ユダが六本木ヒルズから逃げたらテロがある。このひとのネットワークには期待。 ただ、自分もユダだ、という自覚は、ないようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年06月24日 13時27分04秒
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