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カテゴリ:哲学研究室
黄金率を信じる人々が今日の主流であることは知っている。
彼らはそれを、感性を導く絶対の価値だとも言い、大衆を操作することに使って成果をあげたりもしている。 共有の道徳があれば、あたりまえのことなのだが、彼らはそれを道徳ではなく、人々を導く倫理的なものがあるのだ、という論拠にしている。 (人類共有の)倫理が、(個人の遵守すべき)道徳を導くのだと、時間というものを、まるで逆さに剥いて理解しているのである。 この人類上げての逆立ちに、最初に気がついたのはカントだった。 かれは自分が逆立ちしていたことに気がついて、大転回をやって哲学者となった。 マルクスもまた、弁証すべき歴史記述が逆立ちしている、と、はっきり述べた。 未来に予定として立てた未知なる絶対精神が哲学を導くのではなくて、過去として歴史記述された反省の実践が、それ(世界の世界性)を明らかにするのだと。 ハイデガーも似たようなことを述べている。 時間は未来から来て過去に向けて流れ落ちている、と。 これは実はヘーゲルの時間論議なのだが、ヘーゲルがその時間のさまを描いていながら、人を超越した宇宙の仕組みとしての時間を無責任に立てていることに、ハイデガーはナチであるがゆえに、気がついていた。 時間は現存在(ダー・ザイン=此処に・ある)としての人間の責任のことであるから、未来からの流れに向くのは当然。しかし、過去はすでになく、未来もまた未だ、ないのだと。 この時間の流れを利用して、世界の世界性へと立ー組み、マシーナリーテクニークの世界に包囲されて窒息しかかっている哲学にも気がついていた。 彼は時間論議から存在論を再構築するという試みを結局放棄し、哲学博士と言う自らの足場をも放棄した。 (ヘーゲル)哲学の終焉を告げたのである。 黄金率は、世界の世界性であり、建前られたイメージである。対象物のピクチャーなのである。 共有の道徳がそこにはある、のだが、(人類共有の)倫理が、(個人の遵守すべき)道徳を導くのではない。 時間論議が逆転している。 道徳が人を倫理的に動かすのであって、倫理が、ひとを道徳に導くのではない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年10月18日 13時23分04秒
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