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カテゴリ:哲学研究室
ところで、「時間論のモノ」という前提で、この「イメージ」を、雑談的に批判して見たい。
イメージは実は時間を持たない(無責任な)ので、時間論に、ははまりにくいのである。 なんでかというと、予定で入れられた時間が、常に隠されているので、無時間に見え、無責任に見える。 ほんとうは時間に無責任なんてのは不可能で、隠しても隠した責任からは逃れられない。 基礎の杭打ち工事を隠してあっても、その責任がいずればれて顕現してくる。 。 しかし賢いユダたちがイメージを導入した目的が、まさにこの時間のクラス化、なわけである。 イメージというのは、「対象物として取り上げたもののピクチャー」のことである。 時間のような、直感認識形成のための隙間ではなくて、人為的に対象化認識されて描かれた絵のこと。 だから自然のイメージ、なんて言葉は、おかしいのである。 中性的変容、などいう言葉(現象学で使う)は、もっとおかしい。 そんなものがあるはずはない。空虚な権力意思でなければ。 命題を立て、対象物を選び、それを予定で描いて、初めてイメージが作られる。 つまり、こころに再現把握される、のである。 イ(イッヒ=アイデンチチイの立てた)・メー(神々の力)・ジ(再現)、なのである。 このメーとの関係が、実に重要なものだということは、あなたにもわかるだろう。 メーとの関係を、関係立てて、見えるように再現したのがイメージなのである。 このメーは、メタ・フィシカのメであり、フリーメーソンのメーであり、実は命題や明暗のメでもある。同じものである。 シュメール古拙文字では目と書くし、エ・メ(立て組み・神々の力=言葉)のメである。 イメージを立てた人々は、絶対の神との直接個人契約というかたちで、ユダヤ教やキリスト教に参加していると思い込んでいる。 実はタルムードどころか、シュルハン・アールーフの、へんな道徳命令に従っているだけだが、その契約が彼らの現実を支えていると信じきっているので、その奴隷生活が、かれらの日常となってしまっている。 彼らの日常は、まさにこの「イメージの日常」、なのである。 今日では白人社会も、日本人も同じである。イメージの日常の奴隷。 時間のかわりに、それが居座ってしまっているのである。 ためしにイメージを追放できるかどうかやって見ればいい。できるはずがない。私どもの方が奴隷だから。 私どもは、誰かが据えた対象物のピクチャーの奴隷、なのである。 これは十戒が禁止する、黄金の雄牛像を祭ってはならぬ、ということなのだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年10月23日 10時12分33秒
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