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カテゴリ:歴史・文化
そして楢山の悲劇が起きたのである。
同胞の先鋒軍とも、そのすべてと話がついたわけではなかった。 日向に拠る阿羅人たちは、新羅の配下にある彼らを拒否した。 逆に筑紫に拠る倭人たちと話がついた。 彼らは百済と友好関係にあったのだが、金管加羅や耽羅(たむら)の海軍を持つ新羅の強大さを、彼ら筑紫の倭人たちは十分すぎるほど理解していた。 筑紫は、阿羅人を直接九州に上陸させることには難色を示したが、難波の橋頭堡に至る各地の補給所を提供し、たぶん恭順の意を示したのである。 そして河内の勢力は彼らを歓迎し、大和に拠る百済勢力の圧迫下にあった彼らは、本国からの新羅系阿羅軍と合体することに異存はなかったと思われる。 その阿羅の人々が貧相な隊列を組んで、陸路の行軍が始まるのと同時に、膨大な数の多羅人も、やってきた。 食い詰めた彼らは、百済の現政権の無能さを知り尽くしていた。 言葉が通じるそちらに寝返っても、将来がないことを見越していたのだ。 行軍に耐えられない父や母を見捨てるわけにはいかないと、仲間に組せず現地に居残ろうとする息子や娘の面前で、大勢の老人たちが自決した。 これが楢山の伝承であると思う。 生き残る者が誰もいなくなったような村落を後にして、彼らは兵糧とともに整然と、金管加羅の港を目指した。 伝統の刀ではなくて、クワをかついで。 彼らは金管加羅に入城した。 金管加羅は、今は新羅の大将軍となった金ユシンの父、金舒弦の本拠である。 金舒弦は、女王が死んだ直後の、この時点での新羅の最高権力者であっただろう。 ここはまた、「欽」の名を持つ多くの王族を出していて、チヌン大帝の父筋の出自であり、倭人を束ねる旧倭国では、たぶん辰王を出していた国。 つまり欽明帝や田村の字を持つ舒明帝は、この国の王族なのである。 辰王との関係が濃厚。 日本書紀以降は、この辰王の伝統は消えてしまうのだが、実は、この当時すでに地下に潜っていた形跡がある。 すべてがすんなりいったわけではなくて、ゴタゴタは、ここでも続いたのだろう。 新羅ソラボルの秦人、韓人と旧倭国連合の辰王、近江の漢人、筑紫の倭人、日向の旧阿羅人王権、河内の旧阿羅人王権、大和に拠る百済系勢力、などが、入り乱れていたのである。 この中で、出雲勢力だけが、どうしても見えてこない。 物部氏という、南四国や難波地域を押さえていた、強大な勢力があったはず。 阿羅軍の侵攻に最初に立ちふさがったのはこの勢力で、大戦争があったはずなんだが。 今年のフユイチゴは稀に見る豊作 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年11月26日 11時24分15秒
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