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カテゴリ:哲学研究室
ニヒリスムスを、弁証して(言い訳して)克服する。
精神の現象を弁証して絶対智の神に至る。 これはヘーゲルの態度である。 そこにあるのはニーチェの言うとおり、唯一の実在へと直視しようとする権力意思であって、二元論という現実を受け入れようとしていない。 西田先生も、そうだった。 矛盾だらけの現実を一切見ようとはせず、絶対にあるはずの、唯一の正しい道を、追いもとめていた。 これは哲学の道ではないのだが、偉大なというしかない、智者のライプニッツが先例をつくり、巨大なヘーゲルが、その大道を仕立てて、哲学の運命にしてしまった。 ヘーゲル以降の哲学者は誰も、ニヒリスムスから逃れるすべはなくなっていた。 それを表明しているのが西田先生の「現在意識」という考え方だと思う。 これは原罪意識では、ないのである。まるで逆。 意識内容に責任を一切負わない、無責任意識。 意識は必ず、今の、この意識である、と、「自己に統一された今」、を先生は持ち出してくる。 この今は、ハイデガーの言う今(ダー)とも、まったくの別物である。 ハイデガーはダー・ザイン(現存在)としての「戸惑う人間」を考えていた。 これは時間的な流れの中にあって時熟の時を希求し見据える今・存在、であって、瞬間ではない。 疎外された、不足の時間であるに過ぎない。 それに対し、西田先生の言う「現在意識」に、時間的なモノは感じられ無いのである。 瞬間、すらもない。 むしろ時間の隙間、空間の隙間、みたいな「居場所」を、その「現在意識」という言葉に与えているように感じる。 純粋経験が与える居場。 命題が、命題を生んでいる。 自己に統一された今があるのなら、それは純粋経験が可能にした「現在意識」にほかならぬと。 まあ、「ニヒリスムスという精神現象を弁証して克服しようとしている」だけだと思える。 自己に統一された今、なんて「ない」し、そもそもバーチャルな過去や違和感のある一瞬過去の今はあっても、統一された今、なんて、もともと「ない」んだ、と小生は思う。 人は対象化認識、しかできない。 対象化する限り、必ず過去に立てた誤りや偽りのモノしか相手にできない。 過去は歴史記述すれば物語としてわかってくるが、今、なんて、それこそ純粋経験でもないかぎり、わから「ない」はず。 その対象化するという認識の行為は、未来へと「投企する」しかないのである。 先生は一期一会を、純粋な 一に仕立てて命題化し、それをイメージ化してしまっていると感じる。 つまり形而上の、先験的なもの(純粋理性)であるしかないのに、その先験という時間を拒否するので、そこには当然、「何もなくなる」。 必ず実質の時間もウロボロス的に、そこに含まれて消えてしまっているのであるが、そのことがみえなくなってしまう。 つまり精神の現象を弁証して神に至る、なんてのは、人には不可能だと思う。 私ども人間が、「純粋経験でできている」のではなくて、「単に有限な存在」だからである。 生命であるから。 だから生命のない、先生の言う現在意識には、絶対に同意できない。 キミは落第だ、と言われてもダメである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年12月07日 05時28分00秒
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