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カテゴリ:哲学研究室
西田先生の場合は自分では言わないし気がついていたかどうかも知らないのだが、ニヒリスムスがちゃんと、その表にまで出てきている。
それがゆえに、言い訳の意見や立場は、小生と根本から違うのであるが、先生の論議は本物の哲学だったと、わかる、のである。 但し、形而上学という、誤った道だったと思う。 神無き形而上学、で、それゆえ、哲学である。 神ある一元論哲学、なんてのは、ありえないので。 西田先生のコレを宗教的だというような人は、哲学博士であっても「哲学」が見えていない人なのである。 自分で無知を知る、ことができない。 知識を集め、テストの点だけを追ってきた人だろう。 かの哲学博士のカントですら、コペルニクス的転回をやって哲学に目覚め、対象的認識の批判を始めたのは、もう老境に至ってからである。 現代は科学技術全盛の時代であるが、科学技術というこれの根底にあるのは西田先生の哲学とは違う。 「無」としての「神を信奉する、悪魔主義の形而上学」なのである。 このことは、もう世間にも、おおっぴらに見えてきている。 バチカンが何を隠し祭り、cernの科学技術者たちが何を崇めているのか、現場を見ればわかるはず。 一方で、その形而上学を必要としないテクノロジーの思想も、代用品として出てきた。 だが、ロゴスにではなくミュトス(技芸)に頼る、そのポイエシス(詩作=出ー来)の技も、根底にあるのはニヒリスムスなのである。 根底まで解かる、哲学が無いからニヒリスムスが見えないのだが。 求道とか根拠とか知識体系というのは、哲学の道ではなくて、全部金満家ソフィストたちの、食い道楽の道である。 そもそも、知識体系、学術体系といったカルトが、道、なのである。 哲学の道、なんて、そんなものは、ない。 京大の近くには散歩道はあるが。 しかし無の根底まで「解かろう」とする先生の態度は、まちがいなく哲学のものである。 神は死んだ。 実はもともと、大昔からメー・オンだったのである。 これは古代ギリシャ語であるが、そのもとの言葉はシュメール語である。 私ども、膠着語(ウラル・アルタイ語)を持つ黒頭種族の直系の先祖の言葉である。 メーはシュメール古拙文字で「目」と書く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年12月13日 07時55分51秒
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