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カテゴリ:歴史・文化
未だ斉明の存命中に、先に海を渡った勢力5千も、決して小さな軍ではない。
しかし日本書紀には、朝倉の宮で斉明天皇崩御ののち、さらに2万7千もの大軍を送り込んだと描かれている。 第三次隊1万の説もある。指揮官は廬原君臣という。 合計4万2千。 しかも2万7千のこれを運んだ者として、阿倍比羅夫の名がある。 ということは、金官加羅の提督が参加している。 これはおかしい、というより、ありえない。 上毛野君稚子というのは、子孫が後に群馬県に拠点を持つようだが、もとは日向の王のようである。崇神帝とのつながりを言う人もある。 遠い過去に、阿羅軍を率いて列島に遠征し、帰らなかった王。 それで阿羅が衰えた。 倭国軍総大将の扶余豊璋というのは、いうまでもなく百済の王子だとされている人物。 そして時の天皇であるはずの、しかも日本軍を直に率いて出兵したはずの斉明帝の命令ではなく、「中大兄皇子の命令で」、というのがミソ。 日本書紀の記述は、「なにもかもがおかしい」、のである。 半島での、この後の一連の動きは、もっとおかしい。 というより、日本書紀の記述がおかしい、だけなのである。 どこがおかしいのか、具体的にわかれば、このおかしさは、ほどけてくるはず。 唐の蘇定方将軍が高句麗征伐に出かけたあと、百済の鬼室福信は、旧臣らを集めて挙兵し、国都の奪還を試みていた、といわれる。 但し、これが真実かどうかは別なんである。 だが、唐の占領軍に敵対する勢力が、百済で沸いたらしいのは事実らしい。 唐人の続守言らを補え、100余名を「近江へ」送ったとも言われている。 続守言は、のちの日本書紀著作者の一人ではないのか、とも、いわれている人物。 奈良の、春秋の弟が居る倭京ではなくて、ユシンの下の息子が居る近江京へ送った。 今は金官加羅の勢力が押さえるそこが、斉明なきあとは倭国の中心地だと、知っていたので。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年12月19日 17時15分52秒
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