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2015年12月20日
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カテゴリ:哲学研究室
 現実というのはヴァーチャリターで、見事に認識破綻している時間/空間であるがゆえに現実、なのである。
 そう、小生は考える。
 自分という、この違和感こそが、現実であると。

 言い訳や、その論理が現実、なんじゃ、ない。
 ましてや事実(ファクトウム)に現実なんて一切、ない。
 ファクトウムは、命題に対しての整合性があるかどうか、だけ。

 西田先生の現実というのは、自己否定するワレが、常に動詞として居る「無の場所」のことで、全世界を写して破綻がないファクトウムにすぎない。
 当然、危うい時間も、空間も、なくなるのである。
 弁証法という「将来の論理のみ」が、この論議を支える。

 紹介本は、絶対無を、絶対の否定だと紹介していた。
 この意見に賛成である。
 弁証法の論議の中で出てくる問題なので、弁証法(言い訳)抜きに対象認識できる命題なのではない。
 しかしここで、絶対否定のわからないひとは(つまり哲学が見えない人)は、これをライプニッツ風の「形而上学命題だ」、と捉えてしまう。
 弁証論(むなしい推論)に見ている、「哲学」なのに。

 この問題はハイデガーでも出てくる。
 ヴァールムイスト ウイバーハウプト ザイエンデス ニヒト フィアミール ニヒトス、という、アレである。
(なぜゆえに そもそも 有るもの なのか 否、むしろ無ではないのか)

 小生の、「馬鹿の一つ覚え」のひとつ。
 ライプニッツの「有への論議」を裏返して、「哲学」として提示しているのである。
 あんたの言っているソレって、形而上学だというけど、哲学じゃないでしょ、と。

 絶対無は、西田先生の場合、絶対否定という「動詞」の哲学である。
 マルクスはこれを歴史認識における「実践」、という言い方をした。
 違和感もヴァーチャリターも先生は見ていないが、生命のゲンであり、大風呂敷のファクトウム(事実)でとらえた「現実」なのである。





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最終更新日  2015年12月20日 09時32分47秒
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