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カテゴリ:哲学研究室
ポイエシスは製作(合目的に作ること)ではなくて、詩作(技芸によって、出-来る、こと)であると小生は考えている。
テクニーク(技術、あるいは芸術暴露)ではなく、テクネー(心構え、あるいは立てー組化)が絡んでいる。 人格的行為が歴史を形成し、歴史が人格を作る、のではなくて、歴史記述を反省する行為が人格となる、のである。 時間的に逆である。 このへんは、西田先生にも解説者にも、絶対に同意できない。 ポイエシスを、西田先生は合目的製作、だとする。 アリストテレスの教条読みである。 だから、ポイエシスをロゴス陣営だと述べることになるのである。 しかし詩を書く人ならわかるはず。 何か目的をもって詩など書けないし、論理を尽くして詩には、ならない。 特に、哲学詩なんて、絶対に、ありえない。 イマジズム(イメージ主義)やイデオロギーは、詩を食い殺す敵なのである。 これは落第生の小生が言っているのではなくて、萩原朔太郎先生や宮沢賢治先生が述べておられる。 小生は哲学だけでなく詩のほうも実は、落第人生なんだが。 高校生のころ伊藤新吉先生や寺山修司先生に見つけ出してもらいながら、直後に、肝心のミューズに、捨てられた。 原因は哲学、だと、自分でわかろうとすることだと、数年前はじめて、わかった。 萩原朔太郎先生や宮沢賢治先生もまた、西田先生の著作に接して、たぶん、大いに不満だったはずである。 時間・空間の実質のない詩なんて、「おおいなる・光り輝く」モノが何もない庭園だからである。 西田先生は、庭を大風呂敷で包もうとして花を見ない。 アリストテレスの詩学を意図的に捻じ曲げて編纂したのはユダヤ人のコーヘンやガーオーンたちで、彼らには(ありてある神の)製作的でない詩など、許せなかったのだろう。 悲劇をネタにしたアリストテレスの詩学を、製作を扱う、時間のおかしさの暴露本ではなく、人の合目的行為の本質解明論にしてしまった。 この事情は、小生のタ・フィシカを参照されたい。 「文庫へのリンク タ・フィシカは下のほうです」 西田先生とは考え方が根本から違うが、ここで西田先生が述べているのはポイエシスとプラクシスをわかることではなくて、その「一体化」の方である。 自己が、自己自身を目的として働くことをプラクシス(実践)。 我々の自己が、歴史的世界において物を形成していくことをポイエシス(製作)。 だとするのである。 なすことは作るということと、同じだと。 小生は、先生のこの意見には大反対。 外にモノをつくることが、内に自己をつくること。 身体がロゴス的だからそうなる、というコレも大不満。 そもそも、外にモノをつくることは内なる自己の偽装ということで、ポイエシスとプラクシスが一体となりうるのは、「(時間的な)偽装がそこにある」から、である。 人は死ぬので、ロゴス的ではなく、単に「理不尽」であるにすぎない。 現実には時間・空間の乖離があり、エイドス・エネルゲイアの乖離があるので、それで人の認識がある。 理不尽こそが人の認識の本質なのに、認識があるから理不尽はおかしいと先生は言う。 認識がない、ことを哲学して得た意思なのに。 ポイエシスは製作(合目的に作ること)ではなくて、詩作(技芸によって、できるもの)である。出ー来る、ということ。 できるがゆえに、そこに感情が嵌って感情流浪が起こる。 叙情や情緒をもたらさず、感情流浪を起こさせない詩は、詩ではない。 人格的行為が歴史を形成し、歴史が人格を作る、のではなくて、歴史記述を反省する行為が人格とみなされて、(社会的に)評価されうる、のである。 時間的に全部逆である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年12月26日 07時38分37秒
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