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カテゴリ:哲学研究室
しつこいようだが、アリストテレスは、人間を、悲劇を歌う出来損ないのオルガンだと見ていた雰囲気がある。
出来損ないの自分を、毎日じっと見つめていたので。 西田先生は、人を出来損ないの道具だとは見ていない。 権力への意思はすごいが、反省しない人なので。 「身体なくして我というものはない。」 西田先生のこれを否定する人はいないだろう。 ただ、先生は、身体をロゴス的なものとして捉えるデジタル人間である。 しかも内なる否定によって我をも否定として捉える、独特のニヒル志向のプラグマチズトでもある。 身体なくして我というものはないが、その身体をも我をも否定する純粋経験の場を直感しているのであって、反省しているのではない。 世界は自己肯定ではなく、自己否定による表現なのだと。 ここはちょっと、天邪鬼の小生に似ている。 ただ、小生が否定するのは共有の偽装の場だが、先生が否定するのは宇宙の真理の場である。 否定しようとする相手の大きさがぜんぜん、違う。 身体を、先生は見られるものだけでなく見るものでもある、と、まさに形而上学的に捉えている。 ここで先生が述べているのはまさしくスペチエスの概念なのである。 歴史的生命の自己矛盾より生じる、個々の生命、といった考え方。 スペチエスはモナドにも似た華厳環境におけるスペチエスなんだと。もちろん、先生はこんな露骨な言い方はしないが。 先生はミュトスの働きを認めず、ロゴスですべてを説明する。 なので、身体の歴史が即ロゴスの歴史となり、スペチエスに合一する。 時間を論議せずに二進法で神の国を説くライプニッツと、同じ論説なのである。 ライプニッツと違うのは、神がある、と説かない点だけ。 先生が説くのは絶対無。 ロゴスは、その絶対無が自己否定で歴史となる弁証法の別名であるにすぎないと考えているように思える。 身体と我の乖離も、乖離ではなくて、合一の自己矛盾だと。 自己の身体を、「非合理の合理化の機関だ」、と述べてはばからないから。 プラグマチズムというのは、カルビン思想のヘーゲル主義だが、確かに先生の思想は微妙に違う。 内なる無知に動かされているところがあるからだろうと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年12月28日 09時32分46秒
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