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2016年01月28日
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カテゴリ:歴史・文化
 斉明の死後も、中空の竜に乗った葛城の皇子の親政は続いた。
 即位も無いまま。
 当然である。本人が大和に居ないのだから、即位のしようがない。

 斉明の死が661年8月、天智天皇の即位が668年。
 実に7年ものブランクがあるのである。
 実は最高実力者金ユシンは忙しくて、それどころではなかった。斉明死去の連絡を受けても、天の王朝の重臣たちが揃って尋ねてきても、ホイホイとは動けなかった。

 661年の6月には金春秋の急死があって、春秋と自分の妹の間の子を、次の新羅王に据えたばかりである。
 ユシン本人は高句麗の戦場を飛びまわっていたので、大和朝廷の連絡員が伺う、どころではなかった。
 即位したのは、高句麗の征伐が一区切りついた年。

 但し本人は新羅にいるので、列島では主の居ないままの、中空での即位である。
 重臣たちは当然、ソラボルに集結していただろう。
 天智というのはずっと後の時代の贈り名で、同様の和風諡号は、天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)
 二つの名前があるのである。

 斉明側からの認識としては、金ユシン一人を皇太子にしたのではなく、金春秋と金ユシン、二人を葛城の皇子としたという認識だっただろう。
 後の時代の贈り名も、これにあわせたのか。あるいは、海を隔てた二つの国土を治めた人物だという意味か。

 ユシンにしてみれば、先に人質で送り出した自分の子が亡くなって、さらに金春秋も亡くなったため、タナボタで回ってきた役回りである。
 しかも斉明とは違って、今や名実ともの辰王(世界の王)なので、辰王以上の、中空の権限などいらん、と思っていたはず。それで、天皇即位の話などは、ほったらかしにしていた。





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最終更新日  2016年01月28日 14時06分48秒
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