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カテゴリ:歴史・文化
斉明の死後も、中空の竜に乗った葛城の皇子の親政は続いた。
即位も無いまま。 当然である。本人が大和に居ないのだから、即位のしようがない。 斉明の死が661年8月、天智天皇の即位が668年。 実に7年ものブランクがあるのである。 実は最高実力者金ユシンは忙しくて、それどころではなかった。斉明死去の連絡を受けても、天の王朝の重臣たちが揃って尋ねてきても、ホイホイとは動けなかった。 661年の6月には金春秋の急死があって、春秋と自分の妹の間の子を、次の新羅王に据えたばかりである。 ユシン本人は高句麗の戦場を飛びまわっていたので、大和朝廷の連絡員が伺う、どころではなかった。 即位したのは、高句麗の征伐が一区切りついた年。 但し本人は新羅にいるので、列島では主の居ないままの、中空での即位である。 重臣たちは当然、ソラボルに集結していただろう。 天智というのはずっと後の時代の贈り名で、同様の和風諡号は、天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと) 二つの名前があるのである。 斉明側からの認識としては、金ユシン一人を皇太子にしたのではなく、金春秋と金ユシン、二人を葛城の皇子としたという認識だっただろう。 後の時代の贈り名も、これにあわせたのか。あるいは、海を隔てた二つの国土を治めた人物だという意味か。 ユシンにしてみれば、先に人質で送り出した自分の子が亡くなって、さらに金春秋も亡くなったため、タナボタで回ってきた役回りである。 しかも斉明とは違って、今や名実ともの辰王(世界の王)なので、辰王以上の、中空の権限などいらん、と思っていたはず。それで、天皇即位の話などは、ほったらかしにしていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年01月28日 14時06分48秒
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