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カテゴリ:歴史・文化
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「人間は自分達の生き方を再定義する必要がある。それは、何のために生き、どのようにして暮らしていかなければならないか、ということである。 そしてすべての問題の元となる貨幣社会に終止符をうち、自然の本質に沿った生き方をする必要がある。 社会を構成する要素には、自然、科学技術、人間という3つの大きな要素がある。自然は科学技術と人間が存在できる地球環境そのものを作り出しているが、その自然を破壊しながら科学技術は発展している。しかし科学技術は人間の生活を豊かなものにしている。 問題は科学技術の発展にともなって自然が破壊されていることで、科学技術を自然の循環に調和させる必要がある。 よってここからは自然と科学技術と人間が調和した拡張プラウト主義とはどういった社会かについてまとめていく。簡単な結論から言えば近く世界は次のようになる。」 以上ネット上の、プロジェクトヴェガ 1章 序文 : 拡張プラウト主義 から。 *** ちょっと読んでみたが、まあ、ひどい序文である。 期待して損した気分。 哲学科の大学生の作だと考えて小生が点をつけるなら、10点。 あまりにひどいので、真っ向から批判してみる気になった。 同じテーマでオイラが書くと、こうなる。 1 個々人は、自分たちの生き方の定義を企画する前に、自分のやってきたことを反省し、真実を知る必要がある。 人は何のために生き、どのようにして暮らしていかなければならないか、という予定ことではなくて、これまで自分は(誰に)どんな目的を与えられ、どんな暮らしをさせられてきたか、である。 個々人が自分を見失っている元凶は貨幣経済にあるのではなく、個々人の共有知識となっている経済というモノと自然というモノの「対象的認識の誤謬」に原因があるからである。 自然という素材対象、科学技術という方法、人間という主体が社会を作った、という身勝手な思い込みがある。 さらに後生丁寧に、その素材対象が自ら、科学技術と人間が存在できる地球環境を勝手に作り出したという、形而上の宇宙論妄想まで与えられている。 この妄想では、科学技術というものは、自然という人間が存在できる地球環境の破壊者だ、ということになっている。 「豊かさと引き換えに、科学技術が地球環境を破壊する」、のではないのである。 オートメーション企画による生産と大量消費のための「素材開発」が、個々人の生存のための「必要条件を無視して、企てられてきた」だけである。 科学技術は目的に合致して切り取られた技術であって、目的が不純であれば、その断片知識や技術は災いとなる。 問題は、科学技術の発展にともなって「自然が破壊されていること」などではない。 自然は、神が与えたもうた人間の活動や生存のための素材なんぞではなく、自ずから露に隠れなく見えている、そのことであるにすぎない。 そこに力や形容を見出すのは勝手だが、実際は「対象認識すべき対象物を、見間違って見立てている」、にすぎない。 自然が破壊されている、のではなくて、生存環境と考えられる対象の、生態系や気象あるいは地学的な、「対象として見出した素材物を加工」、しているだけである。 目的に合致した加工ではなくて、目的に合致しない加工まで、無反省のままにやってしまって、いろいろ弊害が出ているだけの話。 「科学技術を自然の循環に調和させる」というのは、人が持つ対象的認識の限界を悟ろうとしない、横暴な考え方である。 この横暴さが、無反省の企画を生み、「対象として見出した素材物の加工」を生む。 神の視点で生態系や気象系や、宇宙の運行にまで関わろうという意図だからである。 イルミナティたちは、そうやって世界を動かし、豊かさを主張してきた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年02月28日 17時17分37秒
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