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カテゴリ:哲学研究室
形而上の妄想を避けるために、・・・である、そのスピリットは避ける必要がある。
・・・である、と立て組まれた精神には必ず軽薄な悪魔が潜んでいて、人の感性を陥れるからである。 人の感性は自分のものなので誤りようがないのだが、それを形式化する型枠が誤る。 形容や、力関係を想定し損ねる。つまり軽薄に誤って予定だててしまう。 感情が暴走して誤る、のではなくて、言い訳し損ねたり、偽装したりするのである。 しかし、・・・であることの外部に、出て、立って、・・・であることを、いわば立てー組まれた御殿構造物のように対象化認識する、その反省にも危険はある。 エクジステンツ(哲学的脱存)は、此処に露な、時間・空間の姿を正しく認識できているわけではない。 その反省的破壊にも、先験的な誤謬がつきまとうからである。 身体のものである感性が導いているのに、ロゴスにおいて、スピリットのような統覚が導いていると思い込んでしまうのも、その一例。 暗い悪魔サタンが導いているのに、見えもせん光、ルシファーが導いていると思ってしまうのも同じ。 オルガノンにおけるポイエシスにおいて、感情が出ー来ているのに、出来合いの感情を流浪させ、歌うのが目的だと、エンターテイメントだと思い込まされてしまうのも、その一例。 反省的破壊で出ー来た認識には、すでに誤謬、つまり先約の偽装が忍び込んでいる。 この先験的誤謬は、まるで人の対象的認識の運命そのものである。 この偽装破壊とその自由を求めて、古代ヘラス人たちは悲劇の演劇の場に居合わせて、オルガンや歌い手と一緒に泣き叫ぶことを好んだ。 現代人と、たぶん、逆である。 哲学は悪霊との絶え間ない戦いで得られる、過去の誓約ー破壊の小さな解かり、であるが、現代人は哲学を徹底的に殺した。 そのかわり、エンターテイメント参加という、予定-破綻の方を選んだのである。 歌うのが目的だと思い込まされてしまって、誓約ではなく、小さな感性の予定-破綻に、好んで参加するのである。 立て組まれた精神に潜んでいる軽薄な悪魔が、人の感性を陥れている様相はいつも、同じ、軽薄な事実である。 科学技術(スキエンチア)の根にあるのは、この軽薄な悪魔的偽装、なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年03月21日 09時15分40秒
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