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2016年05月15日
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カテゴリ:歴史・文化
 一方、阿羅(ム)族は、帝国イスラエルと同盟関係にあったウラルトゥ帝国の主人たちのことである。

 ナイリの地、ビバイニ(美馬那)の国で、美麗王アラメア(アマテラス)とともに、反アッシリアの将として、イシンの旗とともに立った。
 ハヤとかハイ(ーク)という種族の、直系の末裔である。

 今日のアラブ人たちとは、いわば遠い遠い御親戚と考えていい。
 遊牧の騎馬民族。陸軍である。
 アッシリア人やバビロンとは、仇敵の間柄である。

 だが、アルメニアの地で現代も生き残っている少数民族アッシリア人は完璧にアラム化しており、しかもアッシリア人を名乗る彼らが、唯一の純粋なアラム文化を受け継いだ生き残りであると言われている。
 アラム文化とアッシリア文化は、相容れないものだが、一部融合していたのである。

 その証拠のひとつが、私どもが中国の古典に馴染み、漢字を使うという事実。
 ウラルトゥの当時から、アッシリアとは文字など共用していた疑いもある。
 メディアに敗れ、トゥーラーンの地へ逃れたアッシリア人主流は混血し、中原で漢民族となった。(これも鹿島昇の説)
 正しくは周人、(アッ(偉大なる)・シュー・ル(人))となったのである。(ルはアッカド語で人)

 同様に、高天原衰退ののち、スバルの星々に導かれて山岳地域に分け入り、トゥーラーンの地へと逃れたアラム人は、たぶん北インド経由で秦帝国と匈奴に入り、分裂した。
 (これも契丹文書をもとにした、鹿島の主張)
 それぞれの帝国が滅亡後は、高句麗を立てた。
 そこで内部抗争に破れたが、辰王の旗を持つ一門が、公孫氏の援護で、半島の南に落ち延びてきた。

 そこらに秦人や北倭、南倭との、未だ見えていない関係が、いっぱいありそうである。





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最終更新日  2016年05月15日 11時22分46秒
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