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カテゴリ:哲学研究室
すべての物事は、対象化認識されて、はじめて把握される。
未知の判断がなされて、・・・である、と予定されて立ってしまうのである。 対象化認識というものは、「ある種の予定」というクラス(方枠)で、成り立っている。 時間・空間という、人の感性の形式で、偽装されて立つ、のである。 だからこれは先験的に誤っており、いずれ破棄すべき「命題が立っている」と見るべきなのである。 ・・・で、ある、という命題である。 これが、思惟である。 存在者の存在(神)とは無関係の命題だから、これは「予定だてるカルト」、なのである。 思惟の本質は、この命題が立つことであるが、さらにそのクラス(方枠)の本性は、理解のためにある。 命題が立っても、それは未知のカルトとして居座るのみで、なんら理解のものではない。 命題に拘って、そのクラスをオートメーション化して、命題を実現に導くためのものではない。 命題が立つのは、その思惟を反省して理解、するためのもの、なのである。 命題は無意味なものなので、こだわってはならない。(アリストテレス) それは予定でなりたっているが、これは破壊して理解、せねばならん、そのためにあるのである。予定のためにあるんじゃあない。それでは本末転倒。 反省的理解によって、予定はその存在理由を解かれ、理解される。 対象的認識はその反省的理解によって先験的誤謬を理解し、存在理由を解かれてはじめて、わかる、のである。 人の存在理由も、である。 予定に拘ることは破滅への道であるが、自分が・・・である、ことの反省は理解への道である。 存在理由を解かれてはじめて、わかる、つまり人は死ぬので、すべてが「わかる」、はずである。 時間・空間を、人の直感的認識の形式だと、感性と名づけた諸クラスの素材だと認識して、はじめてこれらは理解できると思う。 自然界に存在する神のこさえた諸形式だと思い込んでいたのでは、カルト化した命題の前で、うろたえるばかりだろう。 人の生は、命題のようなもの。 それ自体は無意味であるし、固有のモナス(一)も、ないのである。 当然、魂もメー・オンである。 しかし人は死ぬので、その有限な時間・空間の感性的な諸形式において、存在理由をもつのである。 これが一寸の虫にも五分の魂、の意味だろう。 対象化認識されて、はじめて把握されるすべての物事は、神の予定がある、のではなくて、・・・である、と、わかる、感性的物事としての理解、その責任、に、ゆだねられているのである。 一寸の虫にも予定認識の能力はある。 しかし人として過去を反省できる能力を持つということは、すばらしいことなのである。 時間・空間という、人の感性の形式では、すべてが偽装されて立っている。 判断停止し、過去を反省して、超越ではなく、史観化することで、その偽装は見えてくる。 次には破壊して、理解、せねばならんのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年06月26日 07時10分47秒
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