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カテゴリ:哲学研究室
今は、プラトンの哲学がイデア実現論では「無い」ことを主張できる。
イデアは人の認識においては影のようにしか見え「ない」ものであって、人が到達できない十全な対象的認識の命題的論議でしか「ない」。 人の認識においては、ポシティヴな光ではなくて、暗闇の方なのである。 いわばイデアは、「当時の自然学的予定論が語る流行語」だったのである。祭り上げるべきものではなくて、哲学が批判すべき、当のもの。 哲学的探求は、このイデアを天上に見出すためのものではない。 不完全であいまいで、いいかげんな、自分自身の魂が、どこにも対象物として見出せないのに、「イデアへと立てー組まれる諸々のカルトがある」。理不尽な現実がある。 というこの現実から、「自分という責任を投げ出さないための努力」なのである。 イデアは、天上の理想と地上の煉獄に乖離した、二元論のバーチャリターなのである。 これが告げているのは一のコスモス(秩序としての宇宙)の体系ではない。 対象的認識における先験的誤謬のため、どうしてもわからない自分という、自由を求める魂(プシケ)なのである。 自分に由来する無知を開こうとするのは、イデアを求める魂の要求があるのに、理解できない部分が、どうしてもつきまとうから、である。 自分の無知を求め、立てー組まれたカルトとの決別なしに、イデアの要求の理由は、わからない。 イデアは究極の目的、なんぞ、ではない。 「立てー組まれた」、時間・空間の存在理由の方、なのである。人の責任。 これが現代では、権力意志を前にして、ニヒルに消えてしまっている。 プラトンの「哲学」が、反省できない人々の手によって、単なる魂の再現探求に貶められ、その権力意志を前にして、ニヒリスムスの闇に葬り去られている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年07月06日 05時35分35秒
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