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カテゴリ:哲学研究室
世界観、というものは、確かにカルトとして立つ。
必ずモノであるが。 というより、これがたたないと、そもそも人は日常の暮らしができない。 しかし世界像というのは、カルトとして立てて、導師(グル)の教説にしてしまったら世の終わりである。 第三神殿は、決して建ててはならない、ということ。 汝偶像崇拝すべからず。 魂の肖像画はあり、みえないシェーマ(図式・構想力)はあり、説明できない時間・空間はある。 それは私どもが「身体を持つ感情の生き物だから」で「ある」。(同義反復) しかし世界全体の像である世界像など、ありえないし、心の像としての光る硬いイメージなど、ありえないのである。 自ら、神の権能でなければ。 心の像は必ず暗い、薄ぼんやりしか見えていない、しかも柔らかい、庭でしかないモノ。 西洋の、イコンという考え方もまた、予定と選びに毒された妄想なのだが、歴史的伝統がそれを解釈可能にさせている。 しかし現代日本人の言う「心象」というのは、これは明白にダメである。詐欺である。 イメージは「対象物の、描かれたピクチャー」であって、「心象の灰色ハガネ(春と修羅の冒頭に出てくる)」ではないからである。「心の方」ではなくて、対象の絡んだ、「モノの方」だということ。 人はモノしか認識できない。心は、カルトを破壊して解かることはできても、認識できない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年06月27日 06時56分14秒
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