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カテゴリ:哲学研究室
また、言葉のイメージ、と、おいらたちは言う。
言葉を発して展開させて、イメージを像として得ているのだと。こころに像を描いて、それで認識しているのだと。 これはウソだと思う。 イメージの偶像に執りつかれた者は、口ごもりながら言葉を捜す。 しかし出てー来る(ポイエシス)のは、慣用句の盗作ばかりのはずである。 俳句を思い出していただければいい。 あれは慣用句の盗作ばかりで、出ー来ている。つまり、ポイエシスされている。 こころにイメージを持つものは、イメージの奴隷であるにすぎないので、ポエムなど、つくれないはず。 オイラは、そのイメージを破壊することに躍起になっているので、ミューズから見放されてしまったことを、今は自覚している。 言語でポエムをつくろうと思ったら、カテゴリーの導きで、諸々の感性の図式を、自分の暗い庭に植え付け、あくまで「自分で育成」しなければならない。 イメージは、ポエム創造において、何の役割も果たしていないのである。 ポエムというのは言語が「出てー来る」ポイエシスの様であるので、言語の初源の様に近く、親しい。 出ー来、あがった、テンプラのような、共有のイメージが言語を導いているのではないのである。季語のイメージが導いている、のではない。 むしろ、季語という責任が、ポイエシスの一端を担っている。 時間・空間という形式の持つ乖離の様、つまり「現実=違和感」がアルケーとなって、ロゴをつむがせて、言語をコト・バへと「出ー来」させている。 イデアが招いて、それをお手本にポエムができる、なんて、稼ぐ同業者を作らせないための、王宮に職を持つ詩人達のウソなんである。 暗い庭に生えて見えてくる「形容」や「力関係」その乖離、にすがって、言葉が発せられる。 言葉が言語を偶像形成している、のは確かだが、この言語という共有が目論んでいるのは、支配でも詐欺でもないのである。 目的は「感情の発露」。目的を忘れちゃいかん。 ギャオー、ワオワオ、という、猫の叫びの、あれ。 これは萩原朔太郎先生の受け売りなんだが。 イデオロギーなんて無関係だし、個々人の持つ偶像にすぎないイメージ伝達、などではないのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年08月06日 05時53分02秒
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