|
カテゴリ:哲学研究室
ファクトウムが述べていることはぜんぶ、感性表現なのである。
事実は感性でできている、ということ。 そしてこれが、理性法則、つまり感性の図式(シェーマ)なのである。 ミュトスという独立した権能があって、それが感性を司り、ロゴスという別の権能が理性を司るという伝統的常識がある。 だが、これは能が見えていないからこうなった、のである。 実際には様々な受け取り方をした現実があり、対象化認識された事実がある。 因果律があるから情報そのものがある、と想定して、何も無い未来にすえたものが、ファクター(要因)である。 結果があるから、原因がある、というわけ。 実は、様々に解釈可能な結果は得られても、一なる結果など、ない。 そしてファクターは、無数に見出されるはずだ。 感性がこさえた能の世界のモノだから、新プラトニズムのような形而上学をやれば、むなしい原因が想定できる、だけ。 やらせているのは全部、心象イメージなのである。 これは実は、心に描きこまれたイコンなのだが、自己反省が無ければ、そんな事実(ファクトウム)は見えてこない。 ファクトウム(事実)が述べているのはぜんぶ、感性表現で、しかも対象物ではなく、能の世界なのである。 自己反省でしか得られない、感性の構えの一部始終を自然に(あからさまに)、しかし幽玄に(有限に)述べているにすぎない。 このミュトスのクラスに、つまり図式の構えに乗せられて、命題を立ててしまうのはおろかである。本当に、アリストテレスがタ・メタ・タ・フィシカで言うとおりであると思う。 だが、そうせざるを得ない面もある。 感性は図式、つまり(人の)時間・空間の形式構え、でしかない。(物理的時間空間は別の架空想定モノ) なので、ロゴス、つまり対象化認識して言語化し、反復しないことには、あからさまな何事も、幽玄のままである。定かには、ならない。 つまり、意味が一切無いように、見える。 理性法則はつまり感性の図式なので、対象化認識して言語化し、反復(受け取りなおし)しないことには無意味だから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年10月15日 06時35分05秒
コメント(0) | コメントを書く
[哲学研究室] カテゴリの最新記事
|
|