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カテゴリ:哲学研究室
対象的認識の無い論理は無い。
同じく対象認識の無い理解も無い。 そして対象認識判断は、思惟主体と延長的対象物に分けて定義し考えることが出来るが、これは「有限かつ責任あるものとして」考えられる、のみである。 命題を立ててそれに従うような、数学とは全く異なる世界のものだ、ということ。 享有を支えているものは個々人の命である。死ねば無関係。 命題立てによる(共有の)論理的整合性は、こんな、命なんかと無関係で、責任も関係ない。 人が死のうが、叫ぼうが、共有理念の矛先は、隠された目的に向かって突撃するのみ。 それ(隠された目的)が、壊れた風車であろうが、絵に描いた餅であろうが、お構いなしである。 対象認識、というコレが最も大事なんだが、共有として立った理念は(否定的契機がなければ)悪霊として振舞う、それのみである。 対象認識をすら隠して、別のものに摩り替えてしまう。 もともと、個々人の享有のもの、なのに、背後には、その目的が隠れているのに。 それらを無視して、むしろ見えなく隠蔽してイコン化してしまう、のである。 日本人風に言うと、イメージ化する。ある種のアイドルにする。 デカルトが気がついたのは、この思惟即存在の明晰判明な理解、そして露な論理が覆い隠していない、「思惟主体と対象物の、相容れぬ有限さ」である。 神の世界を見出したんじゃなくて、人の享有世界を見出した。 自我と質料的自然を見出した、のではなくて、対象的認識の有限さや判断における拠り分けけと異なる、自己破綻の明晰判明な「理解」である。 理解は明晰判明で覆い隠されていない。しぜん、である。 これは動詞。名詞じゃない。 判断はそれに対し、悪霊が、その目的を隠して命令するのである。 西田先生なんかは、この明晰判明な理解を担う、純粋経験というものを想定して立てる。 これはたぶん、フッサールの持ち出す中性的変容とおなじもの。 対象を現象と呼ぶ事で、共有目的を隠蔽し、享有する時間・空間を見えなくさせている。 さらに言うなら、ライプニッツの持ち出す、モナドの権能である。全世界を映す鏡。 デカルトが気がついているものは、まったく違う。 形而上学的目的なんぞは皆無で、自分が得た明晰判明な理解を、他人に語れるとも思っていない。 そのかわり、産婆術はやれると気がついて、方法序説を書いたのである。 (そもそも有限である人には)対象認識判断の無い論理も、理解もまた、ないんだと解かって。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年01月08日 08時55分30秒
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