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カテゴリ:哲学研究室
時間・空間がナニであるのか、わかろうとするのは、実は簡単そうに見える。
自分自身の、こころや身体を反省すればいい、だけだから。 時間・空間は、オイラの対象的認識がこさえている形式だし、思惟するこころと、その思惟を形成する身体枠のものだから。 しかし、これを弁証することは容易ではない。というか、ほとんど、できない。 弁証は必ず弁証の目的を持った論議であって、単なる素朴な対話(ディアレクチーク)ではない。 見据えている対象ブツが、その目的でもって仮置きされてしまうのだ。 その仮置きされたイデー(理念)なり、自然物(素材)なりが、時間・空間がナニであるのかを覆い隠し、見えなくする。 自分が逆立ちして、コレを、「イデアが人の思惟や行動を導く」、とのたまうのがプラトン主義者たちであるが、それはイデアという名の架空のイメージで、アイドルを立てた、だけである。過去のイメージの論議で、これを採り上げた。 アイドルを祭り上げる前に、弁証は、自分の目的を明確にしなければならない。 これが、カトリックの言う告白である。これなしに、キリスト教は、始まらない。 自己を解体して解かり、告白し、懺悔し、悪霊に囚われたイデーは捨ててしまわねばならない。 ところがアイドルが居座ってイコンと化すので、悪人の聖アウグスチヌスにまでは行き着けないのが普通なのである。 デカルト以降、哲学の歴史は、この時間・空間を解かろうとして無駄な努力を重ねたように見える。 それを茶化して哲学を錬金術に貶め、二進法の形而上学を立てた、ライプニッツのような超賢い人もいる。彼も、イルミナティのグランドマスターだった。 でも、先輩の主張するそれら形而上学の諸々を全部無視して、対象認識を絶対視する学問世界の純粋理性を疑い、批判した、カント先生のような哲学者たちもいたのである。 カントは庶民の苦学生の出で、自然科学の啓蒙思想家として世に出、名声を得た。 それでフリーメーソン組織に加入できて、そのつてで、やっと哲学教授の職を得たのであるが、さらに、もう晩年になってはじめて、哲学者となった。 これはカント自身が述べていること。 出身国プロイセンの先輩コペルニクスを見習って、思惟のコペルニクス的転回を果たし、自然科学者から哲学者へと、転向したのである。 対象的認識物の自然を解かろうとした、のではない。 太陽は地球の周りをまわっているのか、地球が太陽の周りを回っているのか、知ろうとしたんではない。 先輩、ミコワイ・コペルニク(銅屋のミコワイ、というんだって)がすでに、そんな意図からは超越していた。 存在する時間・空間がナニであるのか、目的を持って知ろうとしたんではなくて、素人のように解かろうとした、だけである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年01月23日 08時39分56秒
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