|
カテゴリ:哲学研究室
・・・である、その認識の基礎には、個々人の享有する感性がある、のだ。
基本的人権なんて、このことを言っているのだが、別のものに成り果てている。 みんなして対象的認識を粗略に扱うから、こうなったのである。 客観は絶対、だなんて。 客観ほど、いい加減で無責任モノはない、のに。目的しか見ないから、それが見えん。 客観は、命題のエクザクトハイトな精確さに対応する。それのみなのである。 それに対し、主観が正しいのは、否定される前の自分自身に対してのシュトレンゲ(厳密)さ。それのみである。 対象認識は、その基礎を主観的感性が図式で支え、客観的な対象物を定義して立てているにすぎない。 共有認識の基礎には、享有認識のウロボロスな破綻が控えているのだ。 それらを誤魔化そうとして形而上学が立てられる。 超越論議が導入されて、時間・空間という形式で持って人の享有する、対象認識の様を見えなくさせてしまうのである。 だから明晰判明な物事を認識すべき哲学は、時間・空間という形式で持って人の「享有する、対象認識の物事の論議」、でなければならない。 その対象認識には先験的誤謬があるのだが、それを誤魔化さずに論議しなければならない。 時間・空間はウロボロスな人の世の実在であって、数学で扱えるマトリクス世界のものではないし、実在を抜きにした純粋経験だの中世的変容だのといった、媒体を導入する形而上学は無意味である。 対象物を認識するには、それを対象物として立てる先験的な認識が必要。それを対象物だと認識するには、自分の過去の経験が必要である。 ドゥンススコトゥス先生のバーチャリター論議は、ウロボロスで幽玄な、この世の実在を論議するには欠かせないものである。 錬金術師たちの形而上学とは、一線を引かねばならない。 新プラトン主義だの、実存主義だの、さらにはプラグマチズムだのといった認識論議の主義主張は、すべて形而上学を目指す陰謀論議で出てくるもの。 ソクラテスが始め、アリストテレスが集大成した哲学は、それらソフィストの学問とは無縁であることを、あらためてきっちりと認識しておくべきである。 でないと、マトリクス世界に囲い込まれて、あっというまにミイラ取りがミイラである。 共有認識の基礎には、享有認識のウロボロスな破綻が控えている。 破綻したからダメなんじゃあなくて、それが実在、という真実なんである。 人は有限な生き物、サルの一種である。生命も認識力も必ず、自己破綻して、死ぬ。 さらに人の対象認識には、主客分裂、時間・空間分裂、先験・経験分裂が必ず、控えている。 十全な神の認識なんてモノは幻想にすぎん。 形容と力関係に分裂して認識する、しかない。 過去と未来に分裂して・・・である、しかない。 その破綻のあること、こそが実在の証。 エンテレケイア(十全な実在)なんて、エーヴィッヒヴィーダーケーレ(永劫回帰)と同じ類の出口なしの幻想。これを明確に言ってのけたのは、ユダ女にコケにされたニーチェだった。 滅びるものこそが感性のもの。 輪廻転生に囚われてたら、ニヒリスムスが口をあけて待っている。 対象認識の主客分裂も忘れて、自分が感性の生き物であることすらも忘れて、今でしょ、なんて言ってたら、そんな目途の立たない(無時間・無空間)ものに囚われてしまう。 ・・・である、そこでは、自分を否定される声を聞かないと、ダメ(堕目)である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年02月08日 09時17分48秒
コメント(0) | コメントを書く
[哲学研究室] カテゴリの最新記事
|
|