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カテゴリ:哲学研究室
日常の実在というものは、反省した自分の過去の価値勘定で出ー来ている。
それが、感性というモノのこと。 時間・空間という、先験的に分裂した認識の枠が、それ。 言葉へと出ー来た(ポイエシスした)、これが、共有の社会の文化を形成する張本人。 だが、やがていつしか、「共有の偶像」と堕ちていく。 集団の目標が掲げられ、みんながその方向へと無意識に、コックリさんのように、一つの方向へと誘導されるからである。 無責任で無反省の、捕食者の企画勘定が、そこで暴れまわることになる。 組織においては、無責任で無反省であることが求められる。 日本人には、特に得意な分野だ。 戦って死ぬことが義務の兵士に、反省の余地などは無いし、生産工程に駆り出されて機械と化すことが求められる労働者に、反省の余裕なども与えられない。 獣の刻印を背負って、死ぬまで無反省に労働せよ、といわれている昨今なんである。 労働にカースト階級を作ろうという、政治経済の動きもあった。 今の文化の定義、文明の定義がおかしいのは、奴隷を扱おうとする、へんな合目的思想が、もともとそこに、忍び込んでいた、からである。 哲学を殺し、へんな共有の定義や時間・空間の数学的定義を、紛れ込ませたからである。 それらの混乱の根底にあるのは、対象的認識の有様を誤魔化す、錬金術師イルミナティたちの陰謀である。 主観・客観、どちらも感性に基づく、*観なのに、それをむりやり、見る主体と見られる客体に、神の視点で分けてしまう。 だから、客観が絶対に正しい、と言ったりする。 人の認識は神ではないし、科学技術認識だから絶対に正しい、なんてことは、起こらないのである。 科学技術で帰納的に黒体(熱力学概念)内に成立した統計認識は、それを主導する合目的な対象認識が支えているわけである。だが、その認識は感性で出ー来ている。 だから、科学技術で機能的に成立した対象認識は、想定外の出来事で、あっさりと破綻する。 100mの津波を想定しても、次には1kmの津波が来る。 この想定外を囲い込む大風呂敷は、詐欺師イルミナティたちの特徴ものであって、科学技術の理念という名の悪霊には、全体世界を包む、その風呂敷の権限すら、本当は、ない。 哲学が、この大風呂敷だと思い込んでいるへんな人もいるようだが、それは西田先生のような形而上学者だけだろう。 ごたごたの発端は、すべて「(自分の)対象的認識における(自分の)先験的誤謬を認めないこと」で起こってきている、それだけだと思う。 享有の時間・空間への、無反省が原因。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年03月11日 08時07分51秒
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