信仰と現実を、結びつけ直す必要が無く、教会組織なしにも成り立つ仏教は、だから宗教ではない。単なる、個人に対する仏の教え。
小乗座部仏教が、本来の仏の教え、なのである。
現実には大乗座部の教団組織がいっぱいあるが、あれは悪人たちが作ったもの。
親鸞上人などは、ちゃんと自分で、グトクだと、頭を丸めて詐欺をやる悪人だと、自覚してた。
弾圧されて、先輩を殺されて、それに初めて気がついたようだが。
師匠の法然上人みたいに、念仏でエクスタシー(それでエクジステンツを導く)に至らなくても、ちゃんとした教団が地蔵菩薩の理念で機能しておりさえすれば、それが、本当の信仰が宗教と出会える場の、受け皿になれるんだと気がついた。
だから親鸞上人の教えは尊敬すべきものであるし、よくキリスト教に似ているとも言われる。
このエクスタシーとエクジステンツも、同じものである。
丸儲け詐欺と、教団経営の諸陰謀のやりくりは、類似宗教の仏教でも、現代は特に必須のものらしいのだが。
特にキリスト教は、「ありてある現実の神が、唯一の・・・であるということ」、などと教える。
なので、自分の日常の現実との、乖離が出てくる。
「信仰と、現実を結びつけ直す」、必要が、どうしてもでてくる。
レ・リジョンして、唯一の・・・である存在者の存在を「受け取りなおさないと」、時間・空間と出会えないようになってる。(奴隷詐欺で、そうなった)
信仰が支える共有の場でないと、脱-存してしまった魂は、自己を享有できない。
という、「組織奴隷」特有の、実に、へんな事態なのである。
キルケゴールは、信仰に忠実な神のスパイとして、例外的単独者としてエクジステンツする。
なので、教会にいる悪人のようには、社会全体を、教団のマトリクスに取り込んでいく事業の必要性には、気がついていなかった。
悪人の彼らも、実は奴隷にすぎない、ということには。
だが、唯一の・・・である存在者の存在、という教えがもともと、「奴隷を作る目的の詐欺」なのである。
個人として自分を反省すれば、人智を超えた神々の力は、確かに世にある、としかいいようのないもの。
しかしそれは、個々人の「恐れとおののき」に過ぎない。
人知を超越して(エクジステンツして)、形容と力関係は個別に対象認識できても、一なる存在者の存在としては、対象認識、できない。神とは直面対峙できない。
絶対のエンテレケイアというのは、神をも無に帰する対象認識の場である。
その一期一会を、一なる存在者だと見立てた空想(アリストテレス)なのである。
対象を1として無の上に立てたから、1だ、と言ってるだけ。
先験的総合判断で。(人の現実は、1ではない。)
対象認識は、現実には、人のバーチャリター(ドゥンス・スコトゥス先生が述べた)として、ある、にすぎない。
先験的誤謬と、経験的弁証に分裂して、あるだけ。
先験的認識と経験的認識は、相互に、ウロボロスな関係を持つし、片方では絶対に成立しない。
・・・である、として享有へと現れてくる存在の力も、本当は無数にあるのである。
これはハイデガー先生も、口ごもって述べていたと思う。
それを1だと言いたい、のは、虚無の(時間・空間の無い場所に予定された)権力意志の奴隷である、に過ぎないからだ。
物理学の方程式、みたいなもんを考えればよい。
ある種のアルゴリズムを持たされた目的図式。
図式は確かに一つだが、思惟主体のエゴも、オイラという自己も、しかし目的の前に1だとは限らんよ、ということ。
宗教(レリジョン)は、今は世界を支配している。
だが、決して普遍的なものではなくて、1神教に特徴付けられた特殊詐欺の一種だ、と言える。
米国のスターゲイトというsfドラマを書いている人たちの一部は、これにちゃんと気がついているように思えた。
フォースへの(目の見えていない)信仰は失っていない、ようだが。
力信仰というコレも、誰かの魔術的陰謀。
ファラオのラムセスが、貧困という文字を辞書から追放しようとしたのと、同じ轍。
強kanだとか盲mokuだとかを差別擁護だとして追放すれば、自分のやってる悪徳や差別が消えると都合よく思い込んでいるだけの魔術の話。(これらの文字は偽善サーバーでは入力もできん)
教団組織は、必ず悪人が作る。聖アウグスチヌスのような。
神の奴隷を増やして、その上がりを収奪して、さらなる教団を大きくして経営する。
迷える子羊たちは、それでも神父に尻を差し出し、牧師に引導を渡してもらう。
そして仲間にならんやつは剣で征服して生贄にする。
全員が構成員となったら、今度は魔女狩りと火あぶりをやって、犠牲者を追い求めるのだ。